花山周子


佐藤通雅/左目をアイスノンもて冷やすなり いま人類史のどのあたりだらう

佐藤通雅第11歌集『連灯』(2017年・短歌研究社)


 

佐藤通雅の前歌集『昔話(むがすこ)』(2013年・いりの舎)には東日本大震災直後からの二年間の歌が収録されている。その冒頭の一連から、並べて置かれた三首を引く。

 

震災の直前の手紙届きたりあはれはるけき過去(すぎゆき)として
死者の数、千否万の単位にも驚かずなりしわれを憤る
昔(むがす)むがす、埒(らづ)もねえごどあつたづも 昔話(むがすこ)となるときよ早(はよ)来よ

 

一首目を見れば、まだ震災間もない時期の歌だということがわかる。ようやく郵便配達が再開され、震災直前に書かれた本来ならば3月11、12日頃には届くはずだった手紙が届く。郵便局も132局が津波で被災したというから、無事に届いただけでも奇跡のような手紙である。その手紙が「あはれはるけき過去(すぎゆき)として」と感受されている。ふだんであれば連続した時間であるはずの幾日か前のことが、震災によってはるかな過去と現在に断絶されてしまったのだ。手紙の内容もまだ震災を知らない日常の上に書かれているのであり、その日常からは今現在自分が立っているこの現状は想像も及ばない場所なのである。

 

二首目では、甚大な死者の数に驚かなくなっていることにもう一人の自分が憤る。ふだんであれば一人の死者に対してだってショックを受けるのに、たった一日の出来事によって、あっという間に感覚を麻痺させられていく。

 

そして、三首目。集題歌でもあり、発表当時から知られた歌である。
そして、私は今改めて、この歌が震災の直後に詠まれていることに驚くのだ。あとがきによれば、佐藤通雅は『遠野物語』で有名な遠野の生まれで、そういう土地で早くから伝承や昔話に親しんできたようである。それにしても、今目前の惨状を目にしながら、それが「昔話」になるときが早く来てくれ、という願いの在り方には驚かされるし、それでいて異様なリアリティをともなっている。便利で快適な暮らし、それはほんの短時間で人類が成し遂げた科学・工業技術の進歩によるものなのだが、それが、一瞬にして破壊された。そこで見えてきたのが、大昔から人が繰り返してきた生き死にの歴史の延長としての「今」だったのではないか。これは一つの相対化であり俯瞰であるとともに、「昔(むがす)むがす、埒(らづ)もねえごどあつたづも 昔話(むがすこ)となるときよ早(はよ)来よ」はほとんど胸を押し殺すように押し出された祈りでもある。今現在からは決して逃れることのできない人間の最も苦しい願いがこの歌には込められている。

 

これら三首にはいずれも、目の前の悲惨な現実こそが「今」であり、「リアル」であるという極端な状況が生み出してしまった相対化の眼がある。そして、次の歌集、『連灯』には、2013年から2016年の歌が収録されていて、周囲の環境は一応の日常を取り戻しているわけであるけれど、こうして一度開かれた眼差しのなかで、たとえば、こんな歌が生まれているのである。

 

左目をアイスノンもて冷やすなり いま人類史のどのあたりだらう

 

巻末の一首である。不思議な歌だ。部屋のなかに仰向けに寝転んで左目をアイスノンで冷やしている自分は、そのまま「人類史」という大きな川の中に浮かんでしまう。ここにも、4月24日に触れたような自己の客体化があるのであり、それが「人類史」という視座のなかに置かれる。片目の冷たい痛みとともに、ここには何かを通過してしまった身体が日常をはずれた場所に取り残されているのだ。