大村早苗/いつもいつもうつむき加減のアネモネの激しい色と弱さを嫌う

大村早苗『希望の破片(カケラ) 30ansストーリーズ』(短歌研究社・2004年)


 

前回、短歌における私性に関して少し述べた。短歌における私性を考えるとき、個人的にいつも頭に浮かぶいくつかの歌集がある。藤沢蛍歌集『時間(クロノス)の矢に始まりはあるか』や謎彦歌集『御製』がその筆頭だが、大村早苗歌集『希望の破片』も自分にとってはそうである。

 

 

今もなお隣で笑っているような錯覚おこす深夜番組
永すぎた友達とみる今晩の月は微妙に右に傾く
ふたりでは食べきれないと知りながら色とりどりの料理を作る
負の側に立たされた今を見つめればどんどんどんどん痩せゆく時間
無理に無茶、無情に無益、虚無・皆無 私にあふれる無数の「無」たち

 

 

この歌集の最大の特徴は、一冊が6章立てになっていて、すべて異なる女性を作中主体(思えば当時はこの言葉はなかった)にして歌が作られていることである。しかも巻頭に「プロフィール」と題したページが設けられ、第一章は「めぐみ(38歳)/心から愛する男性と数年にわたり不倫関係にある女性」、第二章は「里矢子(36歳)/10年にわたる結婚生活にピリオドをうった女性」、第三章は「礼奈(32歳)/ずっと友人だった後輩の男性が気になりだした女性」、第四章は「さやか(30歳)/30歳になる直前に、小さい頃からの夢だった結婚をした女性」、第五章は「久美子(34歳)/婚約者を突然の交通事故で亡くしてしまった女性」、第六章は「啓子(33歳)/総合職として入社し、一生懸命に仕事をしてきた女性」とある。掲出歌は便宜上第一章から引き、以下の引用歌は各章から順番に一首ずつ引いた。

 

ちなみに作者である大村早苗自身のプロフィールも巻末に記されているが、6人の女性像と完全に合致するものはない。おそらく少しずつ重なっているのだろう。虚構というよりも、取材による異なる人物像の構築という印象だ。あとがきの終わりの方に記された「あなたは誰の心に自分を重ねあわせますか?」という一文が、大村の作歌意図およびこの歌集のコンセプトを端的に物語っている。

 

作者に対して失礼な言い方になるが、作品の出来あるいは私性のロールモデルを評価して取り上げたわけではない。歌はどの歌も解釈には迷わないが、かなりの通俗性を含んでいるのも事実だ。それゆえに何度読んでもリアリティが弱く、頭で作っている印象は拭えなかった。

 

5ページに渉る長いあとがきでは、バブル崩壊後の女性の生き方へや30歳代女性に対する大村の考えが綴られるが、なぜ小説などのジャンルではなく短歌形式を使って6人の異なる女性像をしかも一冊の歌集で描いたかの説明はない。同世代の女性の共感を得ようとした意図はおそらく間違いないだろうが、それならば読解に相応の技術と経験を要する短詩形ではなく、小説を著した方がより共感を得られたのではないか。これらの点を総合的に考えると、厳しい言い方になるが、作者が短歌の機能をどこまで理解した上で、さらなる拡張を目指してこの歌集を著したかは疑問である。実際、当時出た書評でも川本浩美が「短歌と小説では使命が異なる」と看破したのが印象に残っている。

 

ではなぜ『希望の破片』を今回取り上げたかというと、この十数年で短歌における私性が変容しつつあると捉えているからだ。例えば斉藤斎藤の第一歌集『渡辺のわたし』は2004(平成16)年刊行で、同じ年に『希望の破片』も刊行されている。ちなみに、石井僚一の第57回短歌研究新人賞受賞作「父親のような雨に打たれて」30首が、私性に虚構を持ち込むことの是非の観点で話題になったのは2014(平成26)年のことで、この2冊が刊行されたちょうど10年後の出来事というのも、偶然ではあるが興味深い。

 

この歌集を短歌の私性に関する知識に乏しい人による徒花と片づけてしまうことも可能である。しかし、それでいいのかとも思う。秀歌の比率が低かったゆえにそれほど話題にならなかっただろうことは否めない。逆に言えば、収められている作品が秀でていれば、エポックメイキングな歌集になったかもしれないのだ。

 

結果的にとはいえ、『希望の破片』はあまり注目されずに終わった私性に関する先駆的な実験だった。そのケーススタディとして、この歌集の題はせめて記憶される価値はあるのではないかとも思っている。