花山周子


田口綾子/ストッキング、感染してると君は言ひわれのタイツは伝線したり

『かざぐるま』(2018・短歌研究社)


 

さて。この歌のどこからつっこめばいいだろうか。というよりも、本当は、私は田口綾子歌集『かざぐるま』についてどこから語り出したらいいのか、という難問に突き当たってしまって、だけど、ここは一首鑑賞の場なので、そんな難問と格闘する必要はとりあえずはないはずで、だから、この今日の一首のどこからつっこむかに途中で問題をすり替えたのだけれど、そもそも、私がこの歌につっこむ以前に、この歌そのものがつっこみなのであるよね。「君」は間違えている。ストッキングのあの、ぴーーと入るひとすじの線は「感染」ではなくて「伝線」。ここはきちんとつっこみを入れておかなければならないだろう。なぜなら、これは単なる言葉の間違いではないからだ。君は、「でんせん」と音で聞いて「伝染」だと思って何の疑問も持たずに生きてきたのだろう。結果、君にとっては「伝染」も「感染」ももはや大した違いはなく、ついには「ストッキング、感染してる」という今日の発言に至ったのである。しかし、当然ながら「感染」と「伝線」とでは全く違う。君はこの間違いを、誰にでもあり得るちょっとしたご愛敬くらいのつもりでいるかもしれないが、君のこの言葉に対する無神経さはもはや暴力に値する。とまでは言っていないけれど、この歌にはそのぐらいの凄味がある。

 

さて。それにしても私はうかつだった。私は「感染」にばかり気を取られてこの歌の「ストッキング」へのつっこみは見逃していた。私がそれに気付くことができたのは、田口がこの一首にとどまらず執拗に次の一首を繰り出したからである。

 

キャベツとレタスほど違はぬと君は言ふわれのタイツとストッキングは

 

「キャベツとレタスほどは違わぬ」とはなるほど、君もなかなかうまいことを言っている。「私」を相手にこれは健闘していると言えるのではないか。けれども、「私」の憤慨はおさまらない。なぜおさまらないことが知れるかと言うと、「われのタイツとストッキングは」の「われ」に過剰な反応を見て取ることができるからである。果たして「君」はこの話題に「われのタイツとストッキング」という限定を設けていたかどうか。けれども、「私」にとってはこれは「われのタイツとストッキング」の問題なのであり、この世の何千万というストッキングやタイツを差し置いて、「われのタイツとストッキング」のつまり「われ」の尊厳の問題としてここに憤慨しているのである。

 

ともかくも、一般に男子はストッキングとタイツの違いを理解していないところがあって女子の顰蹙を買うのである。だから、ここでの「私」は真っ当な一女子としてつっこみを入れているともいえるのであるが、さて、ここに来てようやく私は、さっきから一方的につっこまれている「君」にではなく、今日の一首そのものにつっこみを入れることができるのだ。そもそも、「私」がこだわっている「ストッキング」と「タイツ」の違いは何かと言えば、生地の厚さ、すなわち繊維の丈夫さの違いということになる。ストッキングは、その薄い素材によってファンデーションのように脚の肌をきれいに見せることを目的に作られているのに対し、タイツは防寒用として肌を外気から守るために作られているから、生地が厚い。であるからして、伝線は素肌のように薄く薄くつくられたストッキングにこそ起こる現象なのであり(この点において、君が「ストッキング」と言ったことはあながち間違いとは言えないのである。)、けれども、「伝線」したのは「タイツ」だったのだ。ここで読者の私には、素朴な疑問がわくのである。タイツがそう簡単に伝線するものだろうか。ところが、歌はそのことには頓着しない。頓着しないばかりか、君の衝撃的な言葉の誤りによってタイツがダメージを受けたかのように詠われる。

 

ストッキング、感染してると君は言ひわれのタイツは伝線したり

 

一見すると、「われのタイツは伝線したり」は、「ストッキング」と「感染」という間違いを訂正しただけのように見えるけれど、私が注目するのは、「伝線したり」という言い草である。「われのタイツは伝線しており」でも「伝線していたり」でもなく「伝線したり」となっているのだ。誤りを訂正する以上にここでは過剰な主観が先だっていて、文体のみならずそもそもの因果関係をも捻じ曲げてしまっている。そして、こうして主観が押し出してくることによって、この歌は君のボケにつっ込むというウケ狙いの域を破り、主体そのものが無防備になってしまう。この無防備さが、読者からのつっこみさえも呼び込んで、全身でまともにダメージを食らってしまうという、そこにこそ、この歌の意外性があるのであり、それが稀有な強度にもなっているのだ。