佐藤通雅/人の骨やもしれぬ白、砂にあり洋の聖者のごとくに屈む

佐藤通雅第11歌集『連灯』(2017年・短歌研究社)


今日の一首は、対になっている。

 

人の骨やもしれぬ白、砂にあり洋の聖者のごとくに屈む
幼子の骨かとつまみあげたるはクレヨンの白、先が丸つこい

 

その一首目では砂浜だとはどこにも書かれていないけれど、砂浜だと思うのは、砂浜の漂流物には確かに「人の骨」かもしれないようなものが落ちているし、砂浜というのは独特の場所で、あそこだけは建造物がほとんどなく、そこに落ちている漂流物は波に削られて、いつの時代のものなのか、どこから来たのかもわからない。まるで「猿の惑星」みたいにはるか未来のようでもあるし、人類誕生以前の過去のようでもある。だから、「洋の聖者のごとく」という比喩が効いてくる。「洋の聖者のごとくに屈む」ときにはもう、ここがいつのどこだかわからなくて、しんとした風景が立っているのだ。

 

韻律も印象的である。定型で割ると、

 

人の骨/やもしれぬ白、/砂にあり/洋の聖者の/ごとくに屈む

 

というふうに読めて、まず最初に、「人の骨」と思うのだ。ここにははっとしたときの生きた感情の動きがある。それから思いなおすようにして「やもしれぬ白」となり「、」がかなしい。そして「砂にあり」と言ったときには、心はしんとしている。おもむろに静寂のなかでそれを拾おうとするのだ。そうしてつまみあげたものが二首目で詠われる。

 

幼子の骨かとつまみあげたるはクレヨンの白、先が丸つこい

 

「幼子の骨かと」は一首目では書かれなかったことだ。そうでないことが知れてはじめて口にできたのだと思う。それは白いクレヨンであって、やっとここまでの緊張がほどけて、「先が丸つこい」と眺めているけれど、自分が「幼子の骨」かもしれない、と思ったその心の寂しさも「先が丸つこい」には見つめられている。

 

ある風景のなかで一瞬、それが「人の骨」かもしれないと思うことはあるだろう。でもそれはふつう、かなり特異な状況を意味するはずで、だから、まさかね、と内心は否定しながら確かめてみて、ああやっぱり違ったというのが大半である。けれども「人の骨やもしれぬ」の歌では「人の骨」であるという予感の中に最初からいる。そういう予感がモーセのような姿をもってあらわれているのである。そしてそういう予感を齎しているのは何よりも東日本大震災の津波のあとの風景にこの人が立っているという現実なのだ。漂流物のなかに「人の骨」があってもおかしくない、そういう砂浜を歩いている。そしてだから一首目にはそれを拾うとき、「洋の聖者のごとく」という静寂が訪れるのであり、二首目には、そんなふうに「人の骨」それも「幼子の骨」かと思ってしまうことのかなしみがあるのだと思う。

 

前回の歌の、「氷山の一角のその一角が光放つ今朝の新聞欄に」の「氷山の一角」という比喩について私は、

 

その比喩がシュールなビジョンを立てることによって、目の前の見慣れた日常が転覆させられつつあることだ。そして、何より、日常そのものが「氷山の一角」であるという鋭い予感がこの転覆の予感を齎しているのである。

 

と書いたけれども、この、「人の骨かもしれない」と思った感覚自体、そして、人の骨かもしれないと思ったところの「白いクレヨン」自体もまた、日常における「氷山の一角」なのであり、その破れ目を通して膨大なかなしみが見えてくるのである。

 

あの津波によって見慣れた日常が転覆させられた、そのあとの場所にいることが何よりも『連灯』という歌集に体験的な思考と文体を齎しているように思うのである。

 

次回、もう何首か触れて佐藤通雅の歌についてはおしまいにします。