第二歌集『青卵』(2001年・本阿弥書店)
私が前回、敢えて男女の差という二分法を用いたのには理由があって、昨今いろいろジェンダーの問題が取り沙汰されているけれど、個々の作品や論に実質的なジェンダーの差があるのか、ないのか、というよりも、たとえば昨日、定型と文体の話で、「違いがある」として書いたけど、そのような「違い」を強調することでこぼれてしまうもののほうをふだん大事に思っている。だけど一方で、女性の歌がこれまで個々人としては高く評価されても短歌史的にはほとんど位置づけされてこなかったのは事実でもあって、それがなぜなのかということを一度「違いがある」という地点から本気で考えてみることも必要なのではないかと思っている。そこをちゃんと考えることが、固定化した批評に新たな通路を開く可能性を感じている。それで、そういう可能性を今私が感じているのは、平岡の歌と昨年のクオリアの文章があるからで、だけど実のところ、私は彼女の歌や文章に感じている可能性や感触をどう説明していいかずっとわからなくて、逆算的に手探りしている状態にある。
それで、とにかく前回、平岡の「夕暮れの皇居をまわるランナー」の歌に、これまでの歌とは全く違う道筋が開拓されている。と書いたけれど、実はここに関しては、もっとずっと前に東直子がその道筋を開いていると思っている。
ただ一度かさね合わせた身体から青い卵がこぼれそうです
東直子『青卵』
たとえば、この「こぼれそうです」がそれである。「こぼれそうです」と告げられたときには、こちらがそれをどうにかしなければいけないような妙な焦りが生じる。読んだ側の心理に直接に働きかけてくる。もし、ここが「こぼれ落ちそう」とか「こぼれてしまう」とかの場合、「こぼれる」って言い方に焦りは生じさせられるんだけど、その焦りは基本的には歌の「わたし」の側にあって、こちらはそれを見て焦るという間接的な焦りであるんだけど、「こぼれそうです」は、歌の「わたし」のほうは鈍感で、状況をよく飲み込めてなくて、読者のほうが大慌てになるのだ。ある意味で無防備であり、ある意味で非常に大胆なこの文体は客観でも主観でもなく、叙述でもモノローグでもなくて、ダイアローグなのであって、そしてダイアローグである故に輪郭が見えなくなる。読者の私のほうが歌を客観視できなくなるのだ。そして、このダイアローグな在り方が究極の口語、という感じがする。いや、私は、啄木の「うつとりと/本の挿絵に眺め入り/煙草の煙吹きかけてみる。」とか、永井祐の「あの青い電車にもしもぶつかればはね飛ばされたりするんだろうな」というようなモノローグの口語も一方で、すごく「口語」だと思っているんだけど、ここには発話者の啄木や永井がいるのに、東の歌では、ダイアローグそのものがここにある、ダイアローグそのものが文体を形成してしまっているという感じがして、それによって「こぼれそう」という自身の体感が他者に共有されるような気がする。そしてこういうコミュニケーションを人間はいつも無意識に行っているような気がする。「わたし」や「あなた」という個人がはっきりとあるんじゃなくて、無意識に繋がろうとするというか、繋がってもいるというか、だから、とりあえず「ダイアローグ」と言っているけど、そういう無意識のコミュニケーションが「ダイアローグ」というかたちを取ってここに抽出されていると言ったほうがいいのかもしれない。