東直子/お祈りは済ませましたかその後ももとの形に戻れるように 

東直子第一歌集『春原さんのリコーダー』(1996年・本阿弥書店)


 

「お祈りはすませましたか」という質問は聖職者のようでもある。けれどもまず不思議なのは、この人が相手のお祈りの内容を最初から知っていることだ。ここには質問のかたちを取ることの先回りする、あるいは回り込む思考方法がある。

 

もう一つ不思議なのは、「お祈りはすませましたかもとのかたちに戻れるように」という質問の中に、「その後も」が挿入されていることだ。「この後も」だったらわかりやすいんだけども「その後も」が挿入されると一定の距離感が生じるとともに、文脈がねじれることになる。このねじれを修正するのであれば以下のようになるはずで、

 

その後ももとの形でいられるように

 

その後にもとの形に戻れるように

 

けれどもこの歌では、「その後ももとの形に戻れるように」となっている。「お祈りはすませましたか」「その後も」にはよそよそしい取り澄ました態度があって、このような冷徹な態度を取らせる感情がここに生じているねじれには内在されるのだ。そのようなねじれが自らの心理を抉るようにして相手の「祈りの内容」に介入していく。もちろんこの相手は自身であるかもしれないわけだけれど。

 

それにしても、「その後ももとの形に戻れるように」って一体どういう意味なんだろう。この「形」は、「家族のかたち」とか「元の鞘に戻る」、みたいな人間関係を示唆するものでもあろうと思うのだけど、私はどうしても、実際の形態のことを考えてしまってぞっとする。人魚姫みたいに何らかの原因で身体の形態が変わってしまうみたいな。そしてその原因とは何かしらの罪悪なんだろうと思う。だからこの「形」は喩的なものには違いないのだろうけれど、それがもっと奥のほうで抽象化されて自分の形態を取り戻せないみたいなどうしようもないものになっているのだ。そしてどんなにお祈りをしても「もとの形に戻れる」可能性はゼロだと感じる。

 

この質問形式の文体を通して「もとの形に戻ることはできない」という真理が直観的に読者に伝達されるのである。

 

この「真理」の在り方が似ているなあと思うのが、

 

ママンあれはぼくの鳥だねママンママンぼくの落とした砂じゃないよね  『青卵』

 

この歌では、ぼくが執拗に問えば問うほど、「あれはぼくの鳥ではなくぼくの落とした砂なのだ」という真実が浮かび上がる。問いかけるとき既にその「問い」に潜在化されている「真実」というものが、問いを通して実体化されていく過程そのものがこうした東の歌では「真実の予感」として伝達されるのである。

 

そしてこのような「真理」を伝達する通路こそ、東直子が口語のダイアローグ性によって切り開いた通路ではないかと私は思うのだ。

 

構築されたモノローグ性によって私が担保する「真理」ではなくて、歌の現場に生じる「真理」を読者に直感させる。それは非常に聡明な先鋭的な方法であるはずなのに、どうしても気分的、感覚的なつまりは天然の産物のように取り扱われてきてしまったところにこれまでの批評の限界があるのではないだろうか。