生沼 義朗


蜂谷博史/爆音を壕中にして歌つくるあわれ吾(わ)が春今つきんとす

(1944年作)
※表記は『新版  きけわだつみのこえ』(岩波文庫・1995年)に拠る


『きけわだつみのこえ』は、第2次世界大戦末期に戦争で亡くなった学徒兵の手記を集めた遺稿集である。

 

掲出歌の作者である蜂谷博史(はちや・ひろし)は1922(大正11)年、岡山県生まれ。旧制第六高等学校(現在の岡山大学)を経て、1942(昭和17)年に東京帝国大学文学部国文学科に入学した。翌年、学徒出陣により陸軍に入営。さらに翌年の1944(昭和19)年の12月24日に陸軍兵長として硫黄島で戦死している。享年22。

 

掲出歌は、「硫黄島戦覚書より」と題された5首のうちの2首目。『きけわだつみのこえ』はもともと手記を集めたものなので、収められている多くは日記である。ちなみに蜂谷の次に収録されている井上長(いのうえ・ひさし)海軍中尉は短歌12首と日誌の一部が収められているが、蜂谷は短歌5首のみが記されている。以下、5首すべてを順番通りに記す。

 

 

硫黄島雨にけぶりて静かなり昨日の砲爆夢にあるらし
爆音を壕中にして歌つくるあわれ吾(わ)が春今つきんとす
南海の淋しさに堪(た)え我は生く人いきれする壕下にありて
人いきれいやまし来る壕中に淋しく生きる人ありあわれ
硫黄島いや深みゆく雲にらみ帰らん一機待ちて日は暮る

 

 

掲出歌が作られたのは1944(昭和19)年12月なので、結果的に亡くなる直前の歌となる。蜂谷の戦死の理由は書かれていなかったが、日米両軍併せて2万5千人以上が戦死した硫黄島の戦いは1945(昭和20)年2月から3月にかけてのものなので、空襲か艦砲射撃によるものと思われる。

 

戦況芳しくないからだろう、既に自らの死を予感していることが掲出歌を一読してわかる。初句二句の「爆音を壕中にして」はややわかりにくいが、防空壕の中で爆音を聞きながらの意であることは疑いない。「あわれ」はこの場合は率直な詠嘆だが、途方もない絶望とかなしみがある。下句もシンプルな物言いに焦りと悲嘆がありありと滲む。他の歌も、交戦下の極限状態が察せられ、簡素な表現ながら人間の姿と思考がダイレクトに伝わってくる。

 

8月15日8月17日8月20日、そして今回と4回にわたって戦争の歌を取り上げた。前に述べたことと重なるが、兵士たちが戦時下の極限状態のなかで自身の切切たる思いを述べる器が短歌だったことはきわめて興味深い。比較するのは不謹慎だろうが、生命の明滅に際している状況という点では、7月6日7月9日7月11日に挙げた死刑囚の歌にも共通するものがないではない。

 

加えて、当時の教養として今よりはるかに詩歌が浸透していたこともあろう。もっとも、『きけわだつみのこえ』は東京大学の戦没学生の手記をまとめた『はるかなる山河に』(1947年刊・東京大学協同組合出版部)が前身になっており、そのため収録されているのは高等教育を受け得た、当時としては少数派の兵士であることを押さえておかなければならない。

 

しかしそれを抜きにしても、国家の都合による戦争という理不尽極まりない理由で散らされてしまった若い命が明滅する短歌作品を読みながら、敗戦後74年経つ今あらためて粛然とするし、またせざるを得ないのである。