生沼義朗


中川智正/りんご樹をこの世の隅に今植える あす朝罪で身は滅ぶとも

中川智正(2011年11月発表)


 

2018(平成30)年つまり昨年の7月6日、地下鉄サリン事件など一連のオウム真理教事件で死刑が宣告された13名のうち、首謀者の松本智津夫(麻原彰晃)をはじめとする7名の死刑が執行された。掲出歌の作者中川智正はこのときに死刑を執行されたひとりだ。55歳歿。ちなみに残る6名は同年の7月26日に執行されている。

 

中川は医師であったが、オウム真理教の幹部としてサリンなどの化学兵器製造に携わり、地下鉄サリン事件や坂本弁護士一家殺害事件など11の事件に関与した人物である。

 

掲出歌は、裁判の上告審判決を迎える際の心境を詠んだもので、2011(平成23)年の11月17日に弁護人を通じて公表された3首のうちの1首。ちなみに他の2首は

 

 

恐ろしき事なす時の我が顔を見たはずの月 今夜も清(さや)けし
遺(のこ)しおくその言の葉に身を替えて第二の我に語りかけたし

 

 

という歌である。掲出歌は、マルティン・ルターの「たとえ明日世界が滅ぶとしても、私は林檎の樹を植えるだろう」という有名な言葉を踏まえている。ルターはプロテスタントがローマカトリック教会から分かれた宗教改革の中心人物である。言うまでもなくキリスト教において林檎は禁断の果実だ。当時は教義や教会への批判は禁断の行為つまりタブーであり、林檎はその暗喩と考えられている。「世界が滅ぶ」は終末論的世界観とも自分がこの世を去ることとも取れるが、どちらにせよ「樹を植える」は次の世代に自分の考えを伝えることを指す。

 

掲出歌に戻ると、「この世の隅」という表現には、多くの人を殺めた決して許されない行為をした自分は、さまざまな事情でまだこの世に生かされているに過ぎないのだとの実感が見て取れる。ルターの言葉を引用したのは、本来宗教に入信し出家したのは人を殺すためではなかったはずなのに、という意識からだろう。「今植える」は、まさに上告審判決を迎えるタイミングであり、死刑確定は当然との認識が「今」という限定を選ばせたと読んだ。下句は死刑確定の自覚と執行への覚悟を感じさせるが、一方で妙な冷静さというか距離感を自分は感じてしまったのも確かである。

 

中川のしたことは現在の社会の価値観に照らし合わせたときに極刑はやむを得ないと自分は思うし、彼自身も罪を認めているので処刑そのものに異論を差し挟むつもりはないが、正直に言ってこの3首はかなり特殊な状況下および背景を抱えているため、普通に短歌作品を読むように読解していいのかはかなり悩む。

 

一方で前々から、獄中で短歌を始める死刑囚や受刑者が少なくないことに関心を持っていた。日本の刑務所では囚人の反省を深めさせる目的で日常的に短歌や俳句を作らせていて、実際に篤志面接委員としてボランティアで短歌の指導を行っている歌人も複数知っているが、そうした事情だけではない気がする。

 

俳句よりも短歌の方が自己の心情を語りやすい。短いので小説やエッセイに比べて労力を要しない。小説やエッセイは裁判や刑務所・拘置所などに対する批判などが出やすいため執筆許可が下りにくいが、短詩形で暗喩などを用いて一見わからないようにそれを行うには相応の技術と経験が必要だなどさまざまな理由が考えられる。また中川は、俳人の江里昭彦と「ジャム・セッション」という二人誌を出している。彼の中で短歌と俳句でどのような差異があったのかなども興味深い。この機会に、自分なりにまた囚人と短歌の関係について考えてみることにする。