田口綾子/過去形がかくもさびしきものなるを分かちあふためにやは別れは

『かざぐるま』(2018・短歌研究社)


 

前回まで書いてきたことというのは、田口の歌がメタなところから作られていないということだ。もっと差し迫った不安定な「崖」のような場所から自分の生きるやり方みたいなものが歌でつづられてしまっていて、だからここでは、生きる手段としての「自己防衛」がそのまま歌の強度になるようなことが起こっている。

 

そして、とにかく、ここまで書いてきてようやく私は田口の歌にある技術の話ができるのだ。睦月都が言っていた、「多彩なパターンを体にためている」という部分もここに来て重要になるわけで、「生きる手段」がいかにして歌に定着されているのかを見なければ作品論としては片手落ちになってしまう。何より、私は、7月1日の回で、「初読したとき「下手」だと感じた」こと、その理由が「メタさを感じられないからだ」と書いたわけだけれども、一方で、技術面では相当に「上手い」とも思っているのであって、批評会でも大辻隆弘が展開していた田口の歌にみられる「古語の偏愛」についてのアプローチは非常に面白く、この歌集を語る上で一番外せないところだと思っている。その時に大辻が指摘していたことの一つに、この歌集で使用されている古語とはアララギ的な万葉調のものではなく、平安中期の文法体系であるということがあった。万葉調というのは詠嘆の「かも」とかに代表されるようにシンプルで朗々としていているのに対して、平安中期になると、かなり複雑なニュアンスが短い反語などによって表現される。大辻があげていた歌でたとえば、

 

過去形がかくもさびしきものなるを分かちあふためにやは別れは

 

この「にやは」が複雑なのであり扱いきるのは本当に難しい。
現代短歌なのに口語訳を試みるというのも変なのだが、これを直訳すると、

過去形がこのようにさびしいものであることを分かちあうためであるのかよ、別れは、いやそんなことはない

となるのかな。この文脈はさらに解凍する必要が出てくるだろう。

別れたことで互いの関係が過去形になったことがこのようにさびしいけれども、このようなさびしさを分かち合うために別れたわけじゃなくて結果として齎されてしまったさびしさはさびしさとしてそれが本当にさびしい。

みたいな、書いててわからなくなってくるんだけども、あるいはもう少し意志みたいなものに踏み込んで、このさびしさのために別れたのじゃなくて、互いに幸せになるためなのだ、みたいなわりと通俗的な物思いがベースにはあるのかもしれないんだけど、ともかく、古語の扱いは相当なのであり、文脈を古語で運ぼうとすることの、文脈を逃さず、こぼさずに古語をこなしながら結句まで詠い切るところにはスリルみたいなものが伴ってきて、ここには、うにょうにょと思っているその生々しい心理がちゃんと定着されていく、生きて動いているところに感嘆させられるのだ。

 

染野太朗が10月13日のクオリアで、

 

玉藻の〝玉〟は美称と言へば「金玉は超美しいつてことぢやん!」となむ

 

たとえばこの歌について、「そのユーモアをユーモアたらしめているのは、内容だけでなく、唐突にあらわれる、学校における古典文法教育の基本をはっきりと踏まえたような歌の末尾だろう。「なむ」は係助詞で強意をあらわし、係り結びを発生させ、文末を連体形に変えるが、わざわざ言わなくても文脈上わかる特に「言ふ」「あり」などが結びとして配されるときは、その結びが省略される場合がある。だからこの「となむ」は本来「となむ言ふ」であるわけだが、そういう構造が学校文法をパロディとして使用しているような感じをもたらし、それが内容とはまた別に歌を支えていて、二重におもしろい。古典の授業を詠んだ歌でそれをやっているところもおもしろい。」という詳細な解説を試みたあとで次のように指摘している。

 

内容や視点そのものにももちろん理由はあるのだが、そういった、古語の使用によって生じるこれらのユーモア、なんとも言えない余裕、自己戯画化は、現代語を言語空間として生きる僕たちだからこそ感受できるものだと言えないだろうか。その点で田口の言語感覚はまさに現代を生きる者のそれであって、歌のフォルムとして見えている端正な〈文語〉定型は、現在の僕たちに対してひらかれた、言わば「最新の古語」という感じがする。

 

この「最新の古語」という観点が田口の歌を考える上で非常に重要であると思うし、平岡の言う、歌の運用の話とも繋がってきてとても面白いんだけども、そして、本当は今日このあたりのことを一気に書き上げてしまいたかったんだけど、諦めて次回に回します。

 

今日はさっき保護者面談に行ってきたんだけど、先生って仕事は本当に大変だなあと、まあ、小学校の先生と高校の先生とじゃまた違うのかもしれないけど、田口さんも先生なのでつくづく思ったことでした。