みぎの手をそらにかざしてうたふこゑ君はやつぱり晴れをとこゆゑ

田口綾子『かざぐるま』(短歌研究社、2018年)

 


 

みづくさのそやそや揺るる水槽のごときこころをたづさへてゆく
改札をくぐれる切符が左手にあたたかかりきやがて冷えにき
カフェオレには砂糖を少し入れて飲む秋にポケットだらけのからだ
落ち葉のやうに切符を溜めて改札のひとつひとつに森ふかくあり
ふるさとの明日の予報に開きゐる青くてあれは誰の雨傘

 

一首目、「みづくさのそやそや揺るる水槽のごときこころ」とはどのような「こころ」なのか、それがなんらかの感情の喩だったとして、でも、嬉しいとか悲しいとか憂鬱とか、そういう感情語ではついに捉えきれない。「そやそや」というオノマトペのイメージを中心にして、薄暗いような水槽の、映像というよりも質感そのものが、その「こころ」の喩としてしずかに迫ってくる。「ゆく」にわずかな意志の気配がある。二首目、一枚の切符が自動改札機をとおって熱を帯びる、それが手の中で徐々にその熱を失っていく。てのひらの感覚が、「やがて」を経ることによって、時間の感覚と混ざり合いながら伝わってくる。一首は最終的に手の感覚へとフォーカスされるが、「改札をくぐれる」がそれ以前に配されているからか、手と切符だけでなく、改札から入って駅の階段やホームを行くその後ろ姿まで想像できるように思う。三首目、カフェオレに「は」、という限定をまずは読むべきだと思う。それ以外の飲み物、おそらくブラックコーヒーには砂糖を入れない、ということだろう。それによって「カフェオレ」が、秋限定の特別な飲み物のように思えてくる。「だらけのからだ」という、音遊びをしているような結句も見逃せない。ここにはわずかな諦念と、カフェオレの温かさによって担保された明るさが、音の響きそのものとなってあらわれている。四首目、見立ての輪郭が濃い。自動改札機の内部に溜まっていく切符を落ち葉に喩え、そこから樹木が立ち上がり、たちまちに小さくふかい森がイメージされる。「落ち葉のやうに」と「ひとつひとつに」の、句の使い方や音の構成において異なりながら七音かつ「に」で終わるというところが、一首の韻律のアクセントとなっている。五首目、歌集をとおして読めば、主体の「ふるさと」に対する不如意というか苛立ちというか、負ってしまっている息苦しさも見えてくるのだが、そしてその思いを重ねれば、天気予報の雨のマークを「誰の」と意識するなかに、わずかの疎外感やそれゆえの親しみも読み取れるのだが、それがわからなくても、「ふるさと」「明日」「青」という語が象徴するもの(それはあるいはなつかしさや冷え冷えとした体感を想像させるかもしれない)を掛け合わせることによってあの雨のマークに血を通わせる抒情のありようは、十分に味わえる。

 

玉藻の〝玉〟は美称と言へば「金玉は超美しいつてことぢやん!」となむ
色気がないと先生(わたし)を笑ふおまへらにくれてやる色気などあるかは
リビングの長座布団と座布団を並べてでんぐり返しを決めつ
照明の紐の先なる小さき球、何度でもわが額に弾く
われの奇行の続くを見ればまた歌ができないのかと君は怯えぬ
明日は燃えるごみの日だから連れていつてもらへるだらうかいよいよ明日
燃えるごみ運びし後に燃えるごみとなりて収集所に留まらむ
連れていつてもらひたけれどごみ捨て場に横たはりなばさむからましを
収集車のあをいろもつとあをぞらの色に似ませばうれしからまし

※( )内はルビ

 

一、二首目は「今日の男子校」と題された一連からなのだが、僕も男子校に勤めていたことがあるからか、生徒のこの感じはよくわかるし、そうでなくともこの直球のユーモアには素直に笑うことができる。ただ、そのユーモアをユーモアたらしめているのは、内容だけでなく、唐突にあらわれる、学校における古典文法教育の基本をはっきりと踏まえたような歌の末尾だろう。「なむ」は係助詞で強意をあらわし、係り結びを発生させ、文末を連体形に変えるが、わざわざ言わなくても文脈上わかる特に「言ふ」「あり」などが結びとして配されるときは、その結びが省略される場合がある。だからこの「となむ」は本来「となむ言ふ」であるわけだが、そういう構造が学校文法をパロディとして使用しているような感じをもたらし、それが内容とはまた別に歌を支えていて、二重におもしろい。古典の授業を詠んだ歌でそれをやっているところもおもしろい。ちなみに「かは」は反語の助詞。「くれてやる色気などあろうか、いや、ない」ということ。これも、内容とともに、というか内容と混ざり合って、なんともおかしい。
三~五首目には、短歌がなかなか作れないストレスや焦りから変な動きをとる自分とそれを見守る「君」が描かれている。やはり笑ってしまうのだが、しかしよく読むと、詳述はしないけれども、完了の助動詞「つ」と「ぬ」(現代語訳するときにはどちらも「~た」と訳されてしまうが)がその(学校古典文法的な)機能のとおりにしっかりと使い分けられていて、そのニュアンスの違いが歌の内容を太く規定していることがわかるし、また、「照明の~」の歌は特に、モノと自分の動きを描写した歌として、その描写の技術には目を瞠る。
六首目以下は、自分もゴミとして収集車に連れて行ってほしいと願う、いじけた内容の歌なのだけれども、その内容でとことんやり切って連作を構成しているし、やはり学校的にメジャーな古典文法が要所要所に使用され、それによっても自己卑下が俯瞰され、相対化され、戯画化され、ふしぎなユーモアが生じているように思う。

 

内容や視点そのものにももちろん理由はあるのだが、そういった、古語の使用によって生じるこれらのユーモア、なんとも言えない余裕、自己戯画化は、現代語を言語空間として生きる僕たちだからこそ感受できるものだと言えないだろうか。その点で田口の言語感覚はまさに現代を生きる者のそれであって、歌のフォルムとして見えている端正な〈文語〉定型は、現在の僕たちに対してひらかれた、言わば「最新の古語」という感じがする。

 

(いやもちろんこういったことは、学校で古典を教えていたことのある、そして短歌をふだんから読んでいる自分だからこその強引な読み方なのかもしれないとは思うけれど、どうにも無視はできないので語りました。)

 

上記を踏まえて。
『かざぐるま』には、専任や常勤でなく「非常勤講師」であることによる葛藤や、家族との軋轢、自己卑下や抽象的・観念的な悲哀などが表現されている。その内容も視点も、ともすれば閉鎖的で息苦しく感じられるはずなのだが、歌集全体としてはそのようには感じられないように僕は思う。そこには上に見たような内容・語法面におけるユーモアが影響していると思うし、他にもたとえば連作そのものの物語としてのおもしろさ等も影響していると思うのだけれども、それよりも僕には、作者の、短歌に対するスタンスそのものが、歌集に開放的(解放的)な印象を与えているのではないかと思われるのだ。〈文語〉(さっきから〈文語〉と〈 〉を付けているのは、「口語/文語」の二項対立を前提とはしたくないからなのだが、ここではとりあえずその説明は措く)の定型にこだわりながら、しかしその扱いはいかにも自由で、大らか。ときに伝統的な抒情を借りながら、学校的古典文法の仕組みを借りながら、そしてときに現代の文化装置等を借りながら、自らという卑屈で息苦しい主体(言い過ぎか)をひとつの「素材」として、短歌で〈遊び〉を展開しているようなところがあるように思う。

 

そして今日の一首。田口の相聞歌(「相聞」とはつまり何なのか、この歌を相聞と言ってよいのか、というところはすっ飛ばして、まずはそうのように言い切ってしまおうと思う)である。以前自分のブログにこんなことを書いたのだが、この「夏の空」のようなあかるさがある。田口の相聞歌はとにかく伸びやかだ。どんな場合も最終的には相手をまっすぐに肯定している感じがある。迷いや葛藤よりも肯定。対象とその言動をまるごとそれとして受け入れている感じ。悲哀や苦悩、そしていかにも湿った抒情を表現するなかで、それを基礎としながらも(今日の一首の「やっぱり」にはほんのわずかの翳がにじむ)、とにかくあかるく、肯定へ向かっている。唱歌「手のひらを太陽に」のあの奇妙なあかるさも、深読みによる暗さを導いたり、修辞によって反転されたりすることなく、「君」に重なっていくように思う。三句の切れ目にきっちりと据えられて印象的な「こゑ」という語と、そこに乗った(「君」の)機嫌のよい声。「やっぱり」の促音に溜められる呼吸が、肯定の力を支える。音だけでなく体言止めである点も「こゑ」に重なっている結句「ゆゑ」、そのふたつの体言止めによる一首の骨太な印象。「晴れ」ということがいかにも見えてくる。

 

みずからを燃えるゴミにたとえるそのありようは、だからきっと、それさえも、パロディの一種なのだ、と言いたくなる。「慈愛」や「自愛」といった、言葉にすればおどろくほど安っぽくてしかし本当に得難い語のことをさえ僕は『かざぐるま』に感じ取ってしまう。