右眉の白髪一本切りたくて鏡のなかに入りゆく鋏

柳田主於美『三六一の路』(青磁社:2017年)


 

北風を入れむと小窓を開けたれば窓いつぱいに隣り家の柿/柳田主於美
駅ビルの大型書店夏休み前にコミック売り場を拡ぐ

 

もうすこしレトリックの凝った歌、ユーモアのセンスを感じさせる歌、あるいは個人的に好みのモチーフが含まれた歌も歌集中にはあるのだけど、なぜかここに挙げた二首のような歌に惹かれることが多かった。なんでもない感じの歌なんだけどなあ、と思ってたのだけど、あとがきに〈タイトルの『三六一の路』は十九路の碁盤をさす〉という一文をみつけて腑に落ちるところがあった。これらの歌には、陣地、という感覚があると思う。隣の柿が自分の家の窓に迫るのも、書店のなかで拡大されるコミック売り場も、陣地争いの前線のようなものだ。盤上の争いを見慣れた目が、生活のなかにまでそれを発見してしまう。北風、夏休み、とさりげなく添えられる季節感は陣地の増減との因果関係を示していて、ここに表れているのも、陣地の増減の裏側にはかならず何かしらの戦術がある、という発想なのではないだろうか。一見いかにも平和でのどかな生活の一コマが戦局を読む目でみつめられること、それによって歌が抱える胸騒ぎにわたしは惹かれたのだと思う。

 

掲出歌は顔という陣地に攻め込んでくる鋏の話だ。
この歌で「鏡のなか」が指しているのは「鏡のフレームの内側」だと考えられるけれど、鏡というものの性質上どうしても「鏡の奥」もいっしょに指してしまうように思う。つまり、この下句は鏡に顔を近づけて作業をする人物の視界を忠実に言い表していると同時に、鏡の向こう側のもうひとつの世界に鋏が渡ろうとしているかのようなシュールさも含んでいる。鋏は眉へ迫るとともに鏡のなかも侵攻していて、この歌で行われているのは鋏による二面指しである。
この歌では対称性が重んじられていて、「右」の眉の一本の白髪をわざわざ切ろうというのは、左の眉には白髪はとくにないことを想像させるし、白髪が切られれば眉は左右対称になるのだろう。その他、鏡を挟んだふたつの世界の対称性があり、鋏という道具の構造の対称性がある。その力学ゆえか、上句には人間の意思や気配をつよく感じるのに対し、下句では鋏が盛り立てられていて、それが一首のせめぎ合いを複雑にしている。
その結果、この歌のなかで鋏はつよい。上句の「切りたくて」は、上句を読む時点では眉の持ち主の望みだったはずが、下句で鋏が自発的に動いているかのような「入りゆく鋏」で受けられるとき、白髪を切りたかったのも鋏の望みだったかのようにすり替えられてしまう。一首の意思は鋏に乗っ取られる。眉と、鋏を持つ手、両方の主人であるひとりの人間の統括のもとに眉の手入れが行われようとしていたはずなのに、鋏のひとりあるきによってそのひとりの人間の全体性が失われる。
つまり、大きくいえば掲出歌で争われているのは自我の領域という陣地である。多くの短歌にとって絶対的なものであるその領域が攻め込まれ、脅かされているからこの歌はおもしろいのだと思う。