染野 太朗


僕は今幸せのはず膝に来てアリ三匹が遊んでいるし

坪内捻典「老愁のゾウ」(「短歌往来」2018年10月号)

 


 

「老愁のゾウ」は11首からなる。「短歌往来」10月号の特集「動物のうた 鳥のうた」に寄せられた連作。

 

今日の一首は連作の1首目。二首目から次のようにつづく。

 

膝に来てアリが遊んでいるはずとさっき思った傲岸にもだ
アリたちが来ているという判断も傲岸だろうか雲がぽっかり
傲岸と護岸はどこか似ているか私の膝をアリが歩くよ

 

読むべきポイントがいくつかある。まずわかりやすく目に飛び込んでくるのは、アリが自分の膝の上で動いていることの表現が「遊んでいる」→「来ている」→「歩く」と変化していくところ。「遊んでいる」は、アリたちの「心情」にまで踏み込んだ表現で、アリのたのしげなようすも見えてくるわけだが、そのように相手の心情(しかもここでは人間とはもちろん異種の「アリ」だ)に勝手に言葉を与えるのは「傲岸」かもしれないと判断し、「来ている」と言い直す。しかし、「来ている」というのも、「私の膝」へ向かって移動してきたのだという、アリの意志を汲んだ表現になってしまうから、結局はその表現も退けられて、最終的に「歩く」となる。アリに対してより中立的なニュアンスの語に変化していったわけだ。

 

「遊んでいる」という判断にすぐさま「傲岸」という判断が下される。相手が「アリ」であるということを超えて、そしてこの連作の主体個人を超えて、現在の僕たちの、他者一般に対するスタンスが見えてくるような気がする。このようなスタンスは決して悪いものではないはずだけれども(むしろポジティブなものとも言えるけれども)、この主体が感じているようなかたちで、場合によっては強迫的に、過剰に、「他者を〈尊重〉する」「他者に〈踏み込まない〉」ということを現代の僕たちは日常においてしているのかもしれない。あるいは、そのように意識しなければ乗り越えられない、克服できない、明るみに出すことのできない問題(歴史的な蓄積を持つ構造的な問題、たとえば、ジェンダーにまつわる格差・差別等)にようやく僕たちは手を伸ばしはじめたのだ、といったようなことも考えた。いや、そういった「問題」から離れたとしても、僕たちは今、少なくとも、自らのある言動がすぐさま相対化され、別の(しかもそれは自分自身の内側からの)視点によってそれは「傲岸」でありうるのだと意識せざるをえないような、ある意味で知的かつ開放的な、しかしある意味で窮屈な状況を生きている、といったようなことが言えるかもしれない。

 

(いや、その真逆の、主観ゴリ押しで生きるありようもむしろ現代の特徴なのかもしれないのだけれども、すでに抽象的に大きくなっている話がさらに大きくなるのでここでは措く。)

 

「相対化」という、やや平凡に過ぎるようなキーワードを添えてこの四首を眺めるとき、アリの動きに対する語彙の変化とともに次に見えてくるのは、そもそも「僕は今幸せのはず」と言って、ごくごく主観的にしか判断できないはずの幸福度さえ、自らの尺度によっては実感をもって判断できない主体がここにいるということ。自分が今幸せなのか不幸せなのかわからない、あるいは「幸せだ」と思っても次の瞬間にそれが相対化されてしまうような知性・感性が浮かび上がる。ここに読者として、むなしい、などという感想をもつのはこの連作においてはおそらく「傲岸」ということになる。「幸せ」の客観的指標になるはずだった「アリ」も、「遊んでいる」という自らの認識によってたちまちにその指標であることを解かれ、自分が幸せか否かという話題は追いやられ、意識はそのまま「アリ」という他者に固定され、そして、上に記したように延々と相対化が続いていく。

 

そして、これはもちろん定型(ここでは音数のこと)の要請でもあるのだろうけれど、今日の一首での一人称が「僕」であったのに、最後には「私」と変化しているところにも注目すべきなのだと思う。よりフォーマルな、あるいは、性差を感じさせない呼称に変化している。その変化は、相対化の渦によって「幸せ」の実感をもてず、「アリ」の動きに対する自らの判断を省みる主体に、いかにも沿うように思う。「僕」という呼称は、性差を感じさせる以上、ジェンダーにまつわる構造的な問題に絡めとられた自分を露呈しているかもしれない、知らぬ間に「僕」以外を貶めているかもしれない、主観的に過ぎることの象徴かもしれない……といったような判断がそこに加わったのかもしれない(と判断するのも、読者としての「傲岸」である、というふうにやはりここでは読む必要があるかもしれない)。

 

そして、最終的に目立ちはじめるのは「雲がぽっかり」と「傲岸と護岸はどこか似ているか」だろう。「雲がぽっかり」に僕は空虚な感じや思考停止のイメージを重ねて読んだ。相対化を突きつめた結果としての空虚と思考停止。「相対化」がたゆまぬ思考を要請するありようだとしたら、それはまさに本末転倒である。そして「傲岸と護岸」。もはや言葉遊びしか残らない空虚を自らの内に感じた、といったようにも読めるだろうし、傲岸であることは実はなにかを守ることに通ずるのだ、とかるく訴えているようにも読める(深入りはしないが、この場合の「守る」は、ポジティブなことでもネガティブなことでもあろう)。「傲岸」を貫き主観的でいつづけることは、他者を自らに踏み込ませない、つまり自らを「守る」ありようとも言えるわけだ。あるいは、そもそも相対化のありようそのものが、他者を「守る」行為であって、そのことが「傲岸」との音の連なりによって直観的に浮上した、というふうに読んでもよいのかもしれない。「似ているか」といって疑問形で判断を保留している点も気になる。今日の僕の、「かもしれない」を連発する文章のようなもの。メタ的に相対化ということを意識してしまった以上、心情的にも、断定ができないのである(それは臆病なあり方とも言える)。

 

……このへんでやめるけれども、このたった四首が、寓話のようになって読者に促す思考の範囲は、案外に大きいのではないかと思う。「幸せのはず」と、手放しでは自らの主観を生きられなくなった主体が、最終的に「アリが歩くよ」とつぶやくとき、自分が存在するということそのものが「傲岸」であることと隣り合わせであるかのような、そんな寒々しいとも当たり前とも言えるような、なんともふしぎな気持ちを味わった。