牛乳が切れたら次の牛乳をあぶない橋をわたるみたいに

山中千瀬『さよならうどん博士』(私家版歌集:2016年)


 

買い置きはしないタイプか。冷蔵庫のなかの牛乳がなくなってからあたらしい牛乳を買いにいく。それが続いていく。生鮮食品代表のような顔をしている牛乳は生活をなんとなく象徴するものでもあり、その牛乳が連なっていくことは、生活がきちんとまわっていることの証明でもある。裏を返せばこの歌は、牛乳と牛乳の谷間に生活がきちんとまわらなくなるきっかけを見出していて、とりあえずはその奈落に落ちずに次の牛乳に着地できていることをよろこんでいる。
一首のなかで言葉がわたっているあぶない橋はどうだろう。レトリックの上で注目したいのは最後の「みたいに」という結びで、こういった直喩表現はそれ自体がそもそも二つのイメージのあいだに架けられる橋のようなものだけど、この「みたいに」は掲出歌のなかではなかなか複雑な役割を果たしている。三句目の「次の牛乳を」のあとにはおそらく「買う」か、それに似た意味の動詞が省略されている。それは本来かなり大胆な省略だけど、この歌に不思議と安定感があるのは、三句目を読む時点ではその大胆な省略は決定していないからだ。助詞の「を」が詠嘆や言いさしにも使われる以上「次の牛乳を。」と切れる可能性が残っているし、あるいは「あぶない橋をわたる」というたとえ話を挟んだ一文の最後に「買う」などの動詞が置かれて「牛乳を」の接続がロングパスで回収される可能性も残っている。判断は先送りされる。一首の全体像がやはり「牛乳が切れたら次の牛乳を(買う。)あぶない橋をわたるみたいに」だったことは、歌を読み終えてから見通せるだろう。それを決定するのが「みたいに」だ。「みたいに」が読者を「牛乳をどうしたのか」まで送り返し、送り返された先には空白がある。倒置がつくられた上で、倒置の核を省略されている。そんなあぶない橋を歌の真ん中でわたらされていたことに、結句を読んで気づくのだった。思えば「次の牛乳」を買えなかった場合も「あぶない橋」は意識されないだろう。ただそこから落ちるだけだ。わたれなかった「あぶない橋」は存在しない。無事にわたりきった場合にのみ振り返って確認できるものである。
また、「あぶない橋をわたる」は慣用句である。比喩として手垢がついてきた慣用句には「みたいに」は内蔵されているので直喩の形をとる必要はないわけだけれど、そこにわざわざ蛇足ともいえる「みたいに」を付けることで、慣用句を比喩として蘇らせ、「あぶなっかしいことをする」という意味よりも、橋のイメージのほうをつよめる役割を果たしているともいえるだろう。それは一首のなかの「牛乳」と「橋」を対等に近づけ、牛乳を買うことと、橋をわたることが、同じ強度で起きていることのようにもみせるのだった。
この歌にとっての橋は下句と上句のあいだにある。それは細かい点にもあらわれていて、液体である牛乳はどちらかというと川のほうにイメージが近いけれど、それが下句では橋のほうに変化するし、「ぎゅ」のアクセントで頭韻的に押しだされる上句に対して、下句では「あぶない」「みたい」のaiの音のリフレインが脚韻的に弾む。「牛乳を」から「あぶない」に無事にわたったときに、読者は次の地面にいるのだ。

 

(ぼくたちは全ての物語の模倣)雪の降る日に手をつないだの/山中千瀬
永劫回帰のなかで何度も死ぬ犬が何度もはちみつを好きになる
フル・カラーの人類と犬そして雨(映画史上に降る光たち)

 

この牛乳と次の牛乳のあいだに架けられる橋。模倣によって受け継がれていく物語や、犬の輪廻転生。山中千瀬の歌は、非連続なものに連続性を見出すことに長けている。だけど、掲出歌で牛乳と牛乳のあいだにちらっと奈落がみえるように、その連続性はいずれもスリリングで儚く、むしろそれらがもともと非連続であることのほうを突きつけてくるようである。それは映画によく似たことなのかもしれない。大量の絵が映像という連続性を錯覚させることも、非連続なショットが物語という連続性を演出することも、生活のなかにはさまる映画が、人生の時間の連続性をくるわせることも。