足元にさっき落としたふでばことそこから散ったひとときの色

石本森羅「今日に会う」(「京大短歌」通巻24号、2018年)

 


 

「今日に会う」は15首からなる。

 

傘を差す最後の一人となりにけり俯きがちに歩いてゆけば
けっきょくはこわれていなかった自転車を押して歩いた一時間ほど
図書館の本は返さずそのままに目を合わせずに隅に追いやる
絨毯の上から思いをはせているカーテンレールの埃の厚み

 

15首のなかでも、見なかった(ことにした)ことや見えなかったことを描いた歌に目がとまった。

 

一首目、雨が止んだのを見ていなかった。止んだことに気づかなかった。ふと顔を上げると、傘を差した人が周囲に一人もいなかった。広い空間の不特定多数のなかでは自分を「最後の一人」とは断定しにくいだろうし、ほんの二、三人の親しい人たちで歩いていたら「もう止んでるよ」などと声をかけられたりするかもしれないし、あるいは「最後の一人となりにけり」というゆったりとした詠嘆に身を浸すようなこともなさそうだから、親しい人もそうでない人もいるちょっと大きめの集団で、そこそこ狭い空間を移動している感じかな、などと想像した(断定はもちろんできないけれど)。雨が止んだのに気づかずいつまでも傘を差していてちょっと恥ずかしかった、という「あるある」的な内容の向こうに、「最後の一人(=自分)」以外の人たちがぼんやりと見えてきたり、また、「俯きがち」であるこの人の性格(にまで押し広げるのはやや大げさだけれども)やこのときの心情をシンプルなかたちで想像できたりするように思う。
二首目、「こわれていなかった」ということが見えなかった。わからなかった。故障していると思って一時間ほど押して歩いたところでそれに気づいた、または、誰かに気づかされた。「一時間ほど」という時間の質をいろいろに想像する。徒労感、ということを思うのだが、この軽めの報告のような語り口からそのような心情まで読み取るのは、踏み込みすぎかもしれない。「こわれていなかった」という字余りをその時間や道のりの長さ(あるいは徒労感)に重ねるのは短絡的に過ぎると思うけれど、ひらがな書きと相まって、押して歩いているときのややふらふらとしたような軌道が体感できるような気もする。
三首目、返却期限の切れた本だろうか。「そのままに目を合わせずに」が実は冗長なのだが、「そのままに」と言ったあとでわざわざ「目を合わせずに」と言うところに、かえって返さねばならないことをよくわかっている、という感じが出ているように思う。それで結局「隅に追いやる」。そのように意識した上で見なかったことにした本は、でも、意識の隅にずっとありつづけるような気がする。にもかかわらず返さない、というのはどういうことだろう。
四首目、そこに埃が溜まっているのだろうなと想像する。けれどもそれを掃除するという行動には移らない。三首目とともに、肝心の行動(期待される行動)には移らずに「見ないということをあえてする」という行動をとっている。ここに怠け心のようなものや強迫性の裏返し、あるいは倦怠や反抗を読んでもよいのかもしれないが、そういった輪郭の濃い心情、「あるある」的な心情よりも、とにかく「見ない」ということがまず印象に残ると思った。

 

今日の一首。「さっき落としたふでばこ」が今足元にあるのか、あるいは「足元にさっき落としたふでばこ」がある(つまり今はもう落ちていない可能性もある)のか、曖昧なところがある。「ひとときの色」も、すぐにそれ(ペンをはじめとした文房具類のはず)が片付けられてしまうから「ひととき」なのか、あるいは、たとえまた落とすことがあったとしてもその散らばり方が同じようになることはないということで「ひととき」(一回限り)なのか、そのへんも曖昧。そういった曖昧さがある以上、これ以上読みを進めるとその読みのほうになんらかの破綻が生じそうなのだけれども、そしてこの歌の眼目はもしかしたら「ひとときの色」のその色彩にあるのかもしれないのだけれども、ちょっとだけ考えてみたいのは、この「さっき」について。前者(今足元にある)だとしたら、「さっき」と言えるような時間が過ぎてもふでばこを拾いもしていないその時間が奇妙だし、後者だとしたら、なぜ「さっき」という中途半端な経過を経て今その「ひとときの色」を思い出しているのか、というところが奇妙に感じられる。
なぜこんなことをわざわざ言っているのかと言えば、連作のなかで、上に記した「見なかった(ことにした)ことや見えなかったこと」というのを、この歌に奇妙なかたちで感じたから。
もちろん、その「色」のことは見ている。しかし、「さっき」という認識に至るまでの時間経過にこの人になにがあったのか見えない。「さっき」と言えるようになるまでなにかを待っていたかのような、ふしぎなタイムラグがある。夢中で何かに取り組んでいて、落としたとわかっていたけれどもそちらを見なかった、ということだろうか。……いかにも重箱の隅をつつくような話なのだけれども、でも、そのタイムラグに、雨が止んだのに気づかなかった時間や自転車がこわれていないと気づくまでの時間と同質ななにかが含まれているような気がしたのだ。そして、その結果として「ひとときの色」がすこし観念のほうに寄っている。抽象的な色が見える。一瞬の、あるいは一回限りの色彩に、時間が溶け込んでしまっている。なにかしらの音を立てて落ちたそのときの、その瞬間の、一回限りの色だけが抽出されているのではない。「さっき」が含む時間によって、色がやや濁っている(あるいは、澄んでいる)。そこにたとえば、「俯きがち」であることのあやうさのようなものを感じてしまったのである。

 

カレンダーの過ぎる速さに染まらずに今日に会うため顔を洗った/石本森羅