豚のいる村があってハムになるめぐりしずかに夕焼けてゆく

髙橋みずほ『白い田』(六花書林:2018年)


 

豚がスポーツカーになるとか、ハムスターがハムになるとか言ってるんじゃない。豚がハムになるのは意外性のない順当な展開で、あるいはそれが事実だからこその現実の残酷さを突きつけます、という険しい表情もこの歌はしていないのに、不思議と異常な迫力を感じる。ハムが出てくるせいかなんとなく料理番組を連想したのだけど、時間がかぎられた料理番組ではよく音飛びのようなスキップが起こる。これを十五分焼きます、と宣言した一秒後に「十五分焼いたものがこちらです」という未来に到着してしまうやつだ。この歌の〈豚のいる村〉という牧歌的な導入からのあっという間の加工食品化にも、料理番組のあの演出に似たスキップを感じる。そしてこの落差の大きさにかかわっているのは字足らずのように思う。字足らずが多いのはこの作者の特徴だけど、この歌のポイントも字足らずの周辺にあるのではないだろうか。
字余りと字足らずは対称的なものではない、というのは多くの実作者が体感的にしっていることだろう。字余りを足すもの、字足らずを欠落させるものだと考えると歌のボリュームを自在に操作できるような気分になるけれど、実際にはなぜかそうはならない。実際には字余りも字足らずもどちらも「足す」ものなのだと思う。定型からなにかを「引く」ことなどできないのだ。字余りが歌の顕在部分になにかを乗せるものだとしたら、字足らずは歌の潜在部分になにかを書き足す「註」のようなものである。
掲出歌の破調はわずか一音、二句目の〈村があって〉が六音という字足らずのみだけど、この部分によって上句は大きく引き攣れていて、前後の初句や三句目を慌てさせているだけでなく、平穏な叙情を回復しようとする下句にまで混乱がややもつれこんでいる。ここで躓くことによって読者は自分がなにかスキップをさせられていることに気づかされる。
この歌には〈村〉がある。豚とハムのあいだに挟まれるこの具体的な場所は、原料と完成品のあいだには加工システムがあり、無数の人の手が携わっていることを思い出させるけれど、同時にこの歌には無人感があり、人の世話のない場所でも野花が勝手に咲くように豚が勝手にハムになっていくような印象も抱かせる。掲出歌の字足らずは歌の表側には書かれないシステムや人々をしまいこむ襞のように作用しているのだと思う。ハムの原料が豚であることを思い出すのも、それを書くこともそれほど難しくない。スタートとゴールは近い場所にある。難しいのは二者のあいだに省略されているものを思い出すことだ。掲出歌は、字足らずの負荷によってなにかを忘れていることそれ自体を思い出させ、忘れられた要素は歌の裏地に貼りつけている。字足らずが全般的に歌の足取りをもたつかせることが多いのも、裏地に貼りつけているものの重さゆえだと思う。
下句にかけて歌の内容は正気になっていくけれど、二句目に屈折があるぶん上句と下句のあいだの反発は少なく、むしろ徐々に血のめぐりがよくなるような印象がある。豚、ハム、夕焼けの色彩的な統一感は空に肉のイメージを重ね、夕「焼け」はたぶんついでにハムも焼いている。

 

同歌集から字足らずのおもしろい歌。

うそをいう人のほうが偉くなるようにみえる万華鏡
途中から戦争しろといわれて飛び立つ鳥のようにかえらぬ
ながき穴からすいよせた赤りんご赤いボールのように食べ
ときたま大きな雪がおちてきて穴となりたり冬木立
ほのか日の差してきて白い田に凹凸のある