チチチチと鳴いてゐるのかこの小鳥握らばきつと温かならむ

橋本喜典『聖木立』(角川書店、2018年)

 


 

『聖木立』のなかの同じ連作からまず二首引く。

 

蟬のこゑ脳裡に沁みよ聞こえざる耳は静けき巌のごとし
ステッキにすこしもたれて紺青の秋の果(はたて)の歓声を聞く

※( )内はルビ

 

一首目、踏まえているのはもちろん松尾芭蕉の〈閑さや岩にしみ入る蟬の声〉。芭蕉のこの句は、蟬の鳴き声や「岩」そのものだけではなく、その鳴き声がひびいているであろう空間そのものの奥行きや広がりをも感じさせるはずだが、その奥行きや広がりは、芭蕉の句が踏まえられていることを無視してしまうと、きっとこの一首からは消えてしまう。語彙やことがらを踏まえるというだけではもちろんなく、句の空間的な厚みをこの一首は引き込んでいて、その上でなされる「沁みよ」という命令調は、蟬の声のボリュームを上げ、「巌(耳)」に向かってそれがあたかも集中していくようなさまさえ感じさせる。蟬の声へと意識を集中させていくと、結果としてこんどは逆に、その声のほうが意識へ向かって集中していき、尖っていくようなイメージ。そして大切なのは、その蟬の声はついに主体の耳には聞こえていないのだということ。主体の感じることのできない音は、主体の記憶を通過しつつ、それでも、抽象的・観念的な音としてそこにある。

 

聞こえないその音をここまで迫力あるものにしているのは、まずは、上に述べた芭蕉の句の空間的厚みであり、それを引き込んだ上での「沁みよ」や「静けき巌」といった語そのものの迫力。さらに言えば、聴覚を介するのとは別のかたちで蟬の声を感受しようとするその、感受への意志そのものが(つまりそれが「沁みよ」という口調にあらわれているのだが)、この一首に鳴りひびく音を荘厳な、止むことのないものにして、読者の内側にひびかせるのだ、という気がする。

 

二首目、「ステッキにすこしもたれて」は自由の利かない身体を想像させるけれど、「ステッキ」という語彙そのものと「すこし」という程度が、この身体になんとも言えない余裕と軽さを与えている。その余裕と軽さを引き継いで「歓声」がある。主体には音が聞こえないということが、「歓声」をやはり抽象的・観念的なものにする。結果的にこの「歓声」を、読者はきっと、聴覚という枠組みを疑いながら読むことになる。「歓声」が〈音〉というカテゴリーをたやすく飛び越えてしまって、空の色はもちろん、樹々の色づきや行き交う鳥や、あるいは秋の風、その空気感(温度や湿度)をも包括してしまう。「歓声」とあらわされたそれがたやすく、〈五感〉という線引きを無効にする。五感のひとつひとつによって秩序立てて感受することのできない、秋の質感、としか言いようのないような、もっと全体的なそれをイメージさせる。

 

「蟬のこゑ」も「歓声」も、聴覚が失われているということを前提とするからこそ、「音」というカテゴリーを脱ぎ捨てざるをえない。聴覚が〈無い〉ということが、聴覚でしか感受できないはずの音を異化し、〈音〉というカテゴリーを無化している。結果的に「歓声」は、五感のすべてを超えたところで、僕たちの想像や体感をゆたかに刺激してやまない。

 

今日の一首。「チチチチ」は聞こえていない。そのような鳴き声で鳴いているのかも定かではない。そしてもちろん、その小鳥を握ってもいない。「チチチチ」という鳴き声は、それが具体的にはどんな小鳥なのかを想像させるし、「温かならむ」は、そのように表現された時点ですでに温かさを想像させるけれども、これだけの温かさが歌をとおして伝わってくるのは、単にそういった見せ消ちの効果や、あるいは一首の口調によるものだけではないように思う。どのように鳴いているのか、どのような体温なのか、それを想像しようとする意志そのものが、聴覚や触覚の実際を超えて、読者にそれを想像させるのだ。聴覚や触覚がこの歌において機能しないからこそ、その意志のみが抽出され、結果として小鳥は抽象化され、かえって鳴き声をはっきりとさせ、手をやわらかく温める。

 

なにかが失われたとき、それが望んだことであるのかないのかにかかわらず、失われる前の状態というのがどうしようもなく、僕たちの思考や感性を規定・制限してしまう場合がある。失われる前の状態との対比で〈今・ここ〉を生きる、ということを、それを望んでいるかいないかにかかわらず、それに自覚的であるかないかにかかわらず、どうしてもしてしまうことがある。〈今・ここ〉の感覚ではなくかつての感覚によって生きてしまう、ということ。気づけば過去に引き戻されている。忘却には時間がかかる。だから、今日の三首には〈今・ここ〉をつよく感じる。聞こえる、という状態を忘れたわけでは決してないのに、それが失われたということが、「失われた」ということを、それだけを、手放している。