くらがりにわがみづからの片手もて星なる時計を腕より外す

葛原妙子『薔薇窓』(1978年)
※引用は『葛原妙子全歌集』(短歌新聞社:1987年)より


 

ほのか日の差してきて白い田に凹凸のある/橋みずほ

 

前回取り上げた髙橋みずほの歌集の、なかでもこういったとくに短い短歌を読みながら考えたのは、なぜこれらの文は短くても「短歌だ」と思えるのだろう、ということだった。上に挙げた髙橋の歌は、この短さを考えると大胆なことだけど歌集の表題歌である。そして、わたしにはこれはたしかに短歌にみえる。その理由としてわたしが立てたのは、短歌を短歌だと決定する根拠には文のフォルムと内面の二つが関わっているが、必ずしもその二つ両方を同時に満たす必要はないのだ、という仮説である。最低限どちらか片方が短歌的であればいい。
フォルムが短歌的であるというのは、五句三十一音で構成されていること、あるいはそれにできるだけ近い形になっていて、そこからはみ出す場合はなんらかの必然性がみとめられるということである。
そして内面が短歌的であるというのは、言葉や文体のすみずみにまで作者の心が映っていると言いきれる、ということだと思う。これは感覚的な話になってしまうのだけど、選ばれている表現や描写に対して、これは作者の心の表れだ、という補助線を引いたときに言葉にもっとも筋が通り、言葉がもっとも鮮やかにみえるように感じられる場合、その文は短歌であると思う。作者の心よりもっと遠いもの(たとえば宇宙の神秘とか、たとえば『歳時記』とか)への言葉の反射を補助線にしたほうが言葉にピントが合うように感じられた場合は、フォルムの支えなしにその文を「短歌的だ」と感じるのは難しいと思う。フォルムが短歌的かどうかあやしい作品を読むとき、読者は無意識にいちいちその検算をしているのではないか。たとえば松平修文の作品を読むとき、わたしのジャッジにはわりと頻繁に「これは短歌ではないかもしれない」が混ざるのだけど、髙橋みずほ歌集ではそれは起こらなかった。この歌の田の凹凸は、同時に作者の心の凹凸である。そう読むのがいちばん腑に落ちる。

 

逆にいえば、フォルムさえ短歌的であればそれが短歌である証拠になる、ということになる。形が短歌ならそれは短歌なのだ、というのはとても当たり前のことかもしれないけれど、前衛短歌と呼ばれた歌人のうちの多くは、フォルムだけをアリバイにして短歌のなかに短歌ではないものを詰めてきたはずだ。そのなかで、葛原妙子の歌を支えるのはフォルムではなく内面である。葛原の歌には破調、とくに字足らずが多く、フォルムは安定しているとは言いがたいけれど、それをものともしないくらいにはその内面は短歌的だと思う。

 

他界より眺めてあらばしづかなる的となるべきゆふぐれの水/葛原妙子
洗ふ手はしばしばもそこにあらはれたり眩しき冬の蛇口のもと
赤き空より遮断機しづかに降(お)りきたり自転車あまた押しとどめたり
水の音つねにきこゆる小卓に恍惚として乾酪(チーズ)黴びたり
昼しづかケーキの上の粉ざたう見えざるほどに吹かれつつおり

 

一首目に端的にあらわれる「他界」という感覚は葛原の歌につきまとっているものである。歌の外側からなにかが訪れる、という場面を切り取った秀歌をいくつか並べてみた。歌のなかにどこからか、手があらわれ、遮断機が降り、水の音が流れてくる。おそらくは現実の光景である場面に重ね、他界からの干渉が表現されつづけている。五首目はその微視的な感性よりも、小さな空気の動きをどこかから吹いてくる風のように切り出すところが読みどころなのではないか。この歌は風をつくっているといえる。
掲出歌はこれらの歌の延長線上にあるものだと思う。帰宅したばかりの部屋での一コマだろうか。暗い場所で腕から時計を外すというあまりにありふれた場面のはずが、言い回しによって驚くほど翳りが生じている。他人事のように描写される「わがみづからの片手」には、自分の身体の一部すらときに他界から差しこまれるものである、という感覚があらわれる。「星なる」というややロマンティックな時計の異化は、暦や時間と天体との関係を考えると理屈が通るようでもあるけれど、水が的にみえるのと同様の、時計の文字盤が星のひとつにみえる距離の「他界」が想定されていると思う。

 

あはせ鏡のうちなるごとき街路樹のひとつすなはちすべてに触れゐつ/光森裕樹

 

実景と心象風景を重ねる、ある光景を描写することが作者の心情をあらわす、というのは短歌のオーソドックスな方法である。そのなかで葛原の歌がしばしば個人の感情の域を超えたものを詠っているようにみえたり、ある特別な象徴性を帯びているようにみえるとしたら、その作風の抱える不安が、短歌という形式自身の抱える不安にたまたま重なっているからだと思う。葛原の歌の不安の対極にあるのがここに挙げた光森の歌だ。この歌の全能感には歌人の夢が具現化されている。ひとつすなわちすべてに触れること。この〈ひとつすなわちすべて〉という信仰を持たないとやってられないところが短歌にはあると思う。しかし、葛原の歌で歌のすぐ外側に迫る〈他界〉は、歌のなかがまったくもって〈すべて〉ではないことを仄めかしてしまう。場面、視界などを切り取るフレームはきっちりつくりながら、そのフレームの脆弱さを同時に証明してしまう。作者である葛原を脅かす〈他界〉とは、外国かもしれないし死かもしれないしあるいはもっと抽象的なものかもしれないけれど、それを表現することが定型の不安を引き出すとき、歌はなにか普遍的な表情をまとうのだと思う。
そしてまた、上に挙げた歌群のなかでいうと〈眩しき〉や〈恍惚〉、掲出歌の〈星なる〉などにどこかよろこびを感じるのも事実である。葛原の歌を読んでいると、こわいものがこんなにたくさんあったら人生が楽しいだろうなと思う。