染野太朗


光る川 光る欄干 君は今日光ったものを忘れるだろう

千葉聡『そこにある光と傷と忘れもの』(風媒社、2003年)

 


 

今日の一首は『そこにある光と傷と忘れもの』の「忘れられた光」という一連にある。

 

アメリカへ行きたいと言う君の手で光る缶(もうすぐつぶされる)

 

という一首で一連は始まり、

 

言わないでおいた言葉は僕だけの言葉 どこへも行けない言葉
「ニューヨークの空は銀色です」なんて書かれた葉書も折れ曲がっていた

 

といった歌を経由し、

 

9が10、10が11になるように、その日も普通の日のはずだった。
ビルは崩れ、土地は痛みとともに知る 永久歯など永久じゃないと
アメリカに電話をかける 鳴り続ける呼び出しのベル 君は不在(無事?)
十月になっても続く君の不在 やわらかいものを愛し始める

 

といった歌が続く。9・11を背景としていることが明らか。詳述はしないが、上に挙げた歌にも多少あらわれているように、この一連、事件の報告や「君の不在」ということだけがテーマなのではなく、「僕」は「君」のアメリカ行きにそもそもあまり賛成できなかった、「僕」にはなにやら思うところがあったらしい、といったことも示している。連作の核となるのはむしろその「君」との〈関係〉についてであるようだ。

 

今日の一首。「光る川」も「光る欄干」も「君」の目にいちど入っている。だからこそ「忘れるだろう」と言われている。もし「君」が最初からこの川や橋の欄干を見ていなければ、あるいはまったく興味がなければ、たとえそこにそれらがあったとしても、忘れる・忘れないという以前の問題で、「君」はそれらをまともに認識することさえしなかっただろう。こまかいことのようだが、「君」は、だから、この川も欄干も見たということが前提になっている。その上で、けれども、「忘れるだろう」と「僕」は言う。

 

この歌をはじめて読んだとき怖ろしかったのは、この歌の段階では川も欄干も、忘れられていない、というところ。「忘れるだろう」という、言わば予言の歌なのだ。それが怖ろしい。川と欄干が、強い光のイメージを伴って初句・二句で定着する。そしてそのまま、歌のなかでは消えない。「君」がなんらかの理由で「忘れるだろう」ということだけが歌に示される。おそらく「僕」は一緒にその川と欄干を見ていた。けれども「君」のほうはおそらく忘れてしまう。そこには「僕」と「君」との心理的距離や(そもそもの「夢」や興味や意思といったものの)方向性の違いがあらわれている。自分にとっての「光」に「君」はあまり重きを置いていない、「君」とは隔たりがある、そこに諦念があらわれている、寂しさや悔しさがある、といったところがあるいはこの歌の要なのだとは思う。しかしこれだけ強烈に光を放つもの、しかも「今日光ったもの」(これも詳述は避けるが、歌の構造上「今日忘れる」という係り方ではないはず。その可能性も捨てきれないけれど)と言い直された段階で、それら以外にも光ったものがあるのであろうことが示唆され、そのすべてが忘れられるだろう、と言っているように読める。つまり、僕にはこの歌が呪いの歌のように見えるのだ。呪い、などという語で言うとなんだかギャグみたいに思われるかもしれないけれど、本当に「呪い」だと思う。歌の言葉が、この一首そのものが、その「今日光ったもの」の運命を決定してしまっているようで怖いのだ。だって、「君」はまだ、それらを忘れていないのだから。「僕」ももちろん、それを覚えているのだから。ただこの「僕」の、「君」との関係が、「君」への認識が、この歌にそう予言させている。まだここには訪れていない未来を、それらが忘れられてしまった未来を、先取りして言葉に定着させている。「君」ではなく、「僕」の認識が、「君」の未来のありようを、「君」のなかにあるはずの「川」と「欄干」の運命を、決定しようとしている。抽象性・象徴性さえともなって大づかみに表現された「光る」であるからこそ、強ければ強いほど濃い影を生む「光」だからこそ、その影としての「忘れる」が強調されるように思えるのだ。

 

「僕」が「君」の未来を、「光」や諦念や寂しさの仮面をかぶりながら、今まさに決定しようとしている。……「言霊」といったことを生々しく感じさせる歌だった。

 

「光」「傷」「熱」「星」などが一回も出てこない本をさがしたけれど
壊れやすい春の輪郭をなぞるように校舎の影に沿って歩こう
淋しい人が明るい遊びをするように机に光を彫りつけている
廃材をかかえて海へ 空をゆく雲、雲、雲に貼りつく光

/千葉聡『そこにある光と傷と忘れもの』