田口綾子/ストッキング、感染してると君は言ひわれのタイツは伝線したり

『かざぐるま』(2018・短歌研究社)


 

今日は本当は29日に行われた『かざぐるま』批評会での議論とからめながらいろいろ書いてみたいことがあったのですが、体調を崩してしまってちょっとそれを書き起こす気力がないので、前回紹介した歌に補足しつつ、それを今後書くことの伏線とさせていただければと思います。

 

ストッキング、感染してると君は言ひわれのタイツは伝線したり

 

この歌について批評会で何人かの方から、「感染」へのつっこみは気づいていたけど、「タイツ」のほうは気づいていなかったと言われて、ああ、私だけじゃなかったのかとちょっと安心すると同時に、ここにこそ田口綾子の個性があるのではないかと思った。「感染」のみならず「タイツ」にまでつっこむこと。ここには読者サービスを逸脱した執拗な追及がたぶんある。もし、ギャグ的な要素を目的にしているならば、「タイツ」は手放したほうが歌の輪郭はくっきりするはずで、読者は現に、「タイツ」を読み飛ばしてしまうのである。けれども、たぶん田口の目的はそこではなくて、言葉に対する厳密な追及のほうにあるのだ。だから「タイツ」を手放すことが最初から選択肢にはない。そしてこの手放さなさが結果的に墓穴を掘っていくことになる。

 

私は会場発言で『かざぐるま』を初読したとき「下手」だと感じたと述べたのだけど(これは必ずしも悪い意味ではない)、その「下手」と感じた部分がたぶんここにあって、つまり私が「うまい」と感じる短歌というのは、自分がどんな作品を生み出しているかに自覚的であると感じられること。そういうメタさを基本的には作品の強度として見ているところがあるからで、もちろん、そういう自覚をさらにはみ出すところにこそ作品のダイナミズムがあるのだからメタだからといって、それがただちにいい作品ということではないんだけど、とにかく、『かざぐるま』の歌というのは、読者が受け取るものと、作者の「つもり」が大きく乖離している気がしたのだ。批評会のなかで、「ブレ」という指摘が出ていたと思う。これは歌集全体の歌柄の多様さなどに触れて言われたことなのだったと思うけれど(ちょっと正確ではないので、改めてちゃんと書きますが)、一首一首に起きているこの乖離もまた「ブレ」としてこの歌集全体の「ダイナミズム」を生み出している気がしている。