生沼義朗


後藤由紀恵/どこへでも行けるからだは雛の日の陽ざしの中を職場へとゆく

後藤由紀恵「春の呪文」(「短歌往来」2019年5月号)


 

 

総合誌「短歌往来」5月号特別作品の後藤由紀恵「春の呪文」33首は異色作かつ意欲作だった。

 

冒頭に「二〇一一年、エジプト王家の谷にて新たな墓が発見される。KV64と名づけられた墓には二人の女性が眠っていた。ひとりは王女と推測され、ひとりは神官の娘で神の歌姫であった。王女と推測されるひとりの死から五百年後、歌姫は同じ墓に埋葬されたらしい。それから三千年後の世界を私は生きている」との詞書がある。「春の呪文」一連を読解するには、この詞書を踏まえておく必要がある。

 

 

われの名はネヘメスバステト神のため歌を捧げし役目のむすめ
蜂蜜に喉をうるおし神のため歌うことしか知らぬくちびる

おはようと声をかけ合う少女らの春の呪文のようなおしゃべり
持ちあるく日数の増せば擦れてゆく文庫カバーの四つなる角は

 

 

とりあえず冒頭の4首を順番通り引いた。一連は、あえて一字下げで始まる歌と字下げをせずに記されている歌が数首単位で交互に繰り返される構成になっている。

 

字下げをせずに記された歌が、先に挙げた詞書に出てくる「神官の娘で神の歌姫」になりかわって詠まれている歌で、15首ある。3000年前のエジプトという設定を描写しつつ、大いなる空間と時間が描かれる。それぞれの歌における具体的事物が多少乏しくも感じるが、その分人物の感情の表現に重点が置かれている。さらに一首一首の歌のすみずみに想像力がおよんでいるため、頭で作ったような理屈や無理な飛躍を感じない。

 

一字下げて記載された歌は18首あり、3000年後の世界である今現在を生きている〈私〉、特に仕事をめぐる事柄が多く語られる。掲出歌もこちらに属する。掲出歌の意味内容や描かれている情景は明瞭である。初句二句の「どこへでも行けるからだ」は、その前の歌の

 

 

ちちのみの父の命にて神のため生きるからだはまだ魚(うお)のまま

 

 

を受けてのものである。近代以降に保証されるようになった個々の自由だが、日常生活の中でそのありがたさを実感することは多くない。だが、紛れもなく自由は当たり前かつ貴重な権利であることを、3月3日の朝の空気とやわらかな陽ざしのなかで噛みしめながら職場に向かうのである。そこには、いざとなれば自由を担保する方を選ぶという、作中主体の静かな決意も見て取れる。

 

この歌に限らず現在の〈私〉を詠んだ歌は、どれも明快な措辞に具体的なエピソードが確かな手応えを加えており、事物のディテールを効果的に歌に取りこんでいるのも、3000年前を詠んだ歌との対比が意味内容だけでなく表現面でもはっきり表れている。

 

一般に連作の歌数が多くなればなるほど、前後の歌をストーリー的に相関させやすくなる。また意味内容的にも補完させやすくなるから、無意識のうちに一首一首の強度が下がってしまうことがあるが、「春の呪文」は一首一首のクオリティが高く、連作構成も考え抜かれていて緩みがない。ゆえに、すべての歌と一連全体が何読にも耐え得るものにしている。それにしても、後藤由紀恵の今までの作品から考えて、こうしたアクロバティックとも言える一連は自分にとっては意外であった。

 

過去3回に渉って短歌の私性に言及した。今回取り上げた後藤の一連は、私性を揺さぶる試みとは異なる。かといって、単なる現状からの逃避願望と見るのは短絡的に過ぎる。3000年前の歌と3000年後の歌両方に共通するのは、生きることに対する後藤の思いと考えである。思えば後藤は第1歌集『冷えゆく耳』から一貫して、正面から人間の生を捉え、思索してきた歌人であった。その思念が比較的平易な表現に深みをもたらし、一首一首をそして一連全体を印象深いものにしているのだ。