花山周子


田口綾子/別に期待してないけど、と言はるれば怠る今日の手洗ひ・うがひ

『かざぐるま』(2018・短歌研究社)


私にとって『かざぐるま』という歌集が非常に語りにくいのは前回触れた「作為」と「結果」とのブレによるところが大きい気がしている。ブレがあるのは決して悪いことではない。宮沢賢治は法華宗教団「国柱会」に入信するほどで、実際には強烈で特殊な思想を背景に童話が生み出されているともいえるのだが、そういう作品が多くの読者に愛されるという結果はあきらかに大きなブレを内包してしまっているように思うし、エドゥアール・マネは当時のアカデミック絵画の権威であるところのサロンの評価を一途に探求したけれど、結果的に彼が脚光を浴びたのは落選展の方であり、近代絵画の祖として後進のモネやドガたちに多大な影響を与えていくことになる。茂吉の実相観入にしたってそうだけれど、しかしこうした例の多くは近代に集中していて現代に近づくほどブレそのものが相対化されてしまい、なかなかダイナミズムとして機能しづらくなっているのも事実である。

 

ところで、私には田口綾子の作品のブレがどうも相対化できないのである。それはブレの巨大さにあるというより、そもそもの「作為」というべき足場の段階でブレが生じているからなのではないか。そしてここに私は現代における「ブレ」の可能性を見るのである。

 

平岡直子が、昨年7月18日のクオリアで、『かざぐるま』作品について次のような指摘をしている。

 

歌をつくるとき、歌を運ぶこと、歌に運ばれることの両面があるというのは実作者には覚えがある感覚だと思う。デビュー作ともいえる新人賞受賞作「冬の火」の時点では圧倒的に歌に「運ばせ」ていた田口の作風は、その後、おもに自力で歌を運ぶほうに変遷したけれど、どちらにせよ「運ぶ/運ばせる」の極端な二つのモードしかないように思える。歌に運ばせるときの力の抜き方、歌を運ぶときの力の込め方、このあたりの適切な力加減は多くの歌人が自然に身につけていく科目だけれど、田口はそれをついに会得していないように思う。
近作では腕力の余りは有機的に利用されていて、ときには連作を物語的に押しすすめる動力になり、ときには文体の過剰さ、大仰さ自体がなんだか風格すら感じさせるユーモアとして機能しているけれど、そういったエンタメ性を田口の作風の魅力だととらえるのは早計である。短歌との駆け引きのできなさから生じているという意味で、この文体のうしろは崖のようなものだと思う。安定しない場所から詠われる景色はまた大きく変わるだろう。うしろに崖を感じること、それがわたしが田口の次の一首を読みたいと思う理由である。
旅先にふたりでひとつのトランクを引きゆくやうに君と暮らさむ/田口綾子

 

たぶん、ここで書かれていることは、私が『かざぐるま』という歌集に感じてしまっていることと非常に近い。そしてまた、平岡にとってはこういうことを書かされてしまうこと自体本意ではないような気がするのだが、ともかくも立っている足場そのものが崖のような場所であること、いつでも墜落しそうな場所に図らずも立ってしまっていることが(歌そのものは一見そうは見えないのだが)、たとえば、批評会の会場発言で睦月都が「一冊のなかにブレがあるからパターンにならず飽きさせない。多彩なパターンを体にためていて、毎回直面したときに、歌をゼロから立ちあげている(※私のメモなので正確ではないです)」というような指摘に繋がる気がする。私はこの発言をとても重要だと思ったのだけど、そして「多彩なパターンを体にためている」つまり方法を持っていることを否定しないのだが、そうした引き出しの多さが齎すはずの安定よりは、毎回崖に立つこと、「ゼロから立ち上げる」ことの不安定さのほうに目が行くのである。ここから先、私の言おうとしていることは平岡や睦月の指摘している範囲を逸脱しはじめる。そして、それはとても危なっかしくて、ただの心理分析に陥ってしまっているのではないか、もしそうだとしたら、というか、私はクオリアで既にそれを何回かやってしまっていて、あとで猛烈に落ち込むのでなるべく避けたいんだけど、けれども、それが作品を考える上でどうしても不可分に見えてしまうことがある。そして、最終的には私はやはり歌の在り方(文体)としての話をしたいのだけど。

 

この崖について、たとえば、

 

教室へゆけどもわたしに師はをらず生徒には背を向けて板書す

 

という歌は、まさに崖に立っていることが詠われている。
自分はまだ先生といえるような自信はなくて、自分のほうが「師」が必要なんだけれどもそういう自分が生徒に教えるために黒板に向かって字を書いている。というふうにこの歌を説明することはできるが、「生徒には」っていう言い方が、自分は生徒以外のものと向き合っているのだ、と言っているようでもあり、けれども「師」はいない状態なのであり、本当は「生徒には」によってかろうじて背後に生徒の存在だけを自分に意識させている、つまりそれはほとんど崖の存在を無視するための「には」なのであり、一つの崖として切り立っていて、本当に心もとない感じがする。

 

あるいは、

 

別に期待してないけど、と言はるれば怠る今日の手洗ひ・うがひ

 

「別に期待してないけど」は、一首だけだとわかりにくいのだが、一連を読むと、母の日のプレゼントについての故郷に住む母からの発言であろうと思われる。この歌について、批評会で馬場めぐみが優れた鑑賞を行っていて印象に残った。馬場は、遠くに住む母からの淡々とした一言、「別に期待してないけど」に過剰に揺り動かされてしまう「私」を指摘するのだ。その結果として、「怠る今日の手洗ひ・うがひ」ということになる。手洗いうがいは日々の暮らしの中で自分を大事にする行為であり、「母の言葉ひとつのダメージが自分を大事にすることができなくなる」と馬場は言うのである。「ダメージ」という言葉が本当にそうだなあと思うのだ。親からのささいな発言によって、いろんなやる気を削がれてしまうことはままあるが、それがあまりにも日常の習慣であるところの「手洗ひ・うがひ」に及んでいることに「ダメージ」という言葉があたるように思う。そしてまた、これらは「歯磨き」などと並べて子供の頃に母親に口を酸っぱくして言われる注意事項の類である。そういう原初的な場所に突き落とされてしまっている。「いはるれば」というもたついた文語ににじむ複雑な心理の後ろに余韻はなく「怠る今日の手洗ひ・うがひ」が畳み込まれ、取り返しのつかなさが全面化される。この歌集の多くの歌は平岡の言葉を借りれば、崖に立っているということができるが(平岡の言っているのはあくまで短歌との駆け引きにおける文体の話なのですが)この歌では崖から堕ちているわけで、あるいはこの歌集には私が気づいていないだけで崖から堕ちてしまっている歌もけっこうあるのかもしれない。

 

つづく。