生沼義朗


相原かろ/くっついた餃子と餃子をはがすとき皮が破れるほうの餃子だ

相原かろ『浜竹』(青磁社・2019年)


 

 

相原かろは「塔」所属。1978(昭和53)年生まれなので、自分とほぼ同世代だ。第1歌集である『浜竹』には2006(平成18)年初頭から2017(平成29)年、年齢でいうと27歳から39歳までの作品401首が収められている。

 

歌集題となった『浜竹』は神奈川県茅ヶ崎市内の地名である。あとがきには「母方の祖父母が暮らしていた土地で、特にこれといった風景や名所があるわけではない。ただ昔から、簡素な漢字の組合わせと息が抜けていくような音感が私は好きであった。「浜竹」という言葉には、かすかに風が吹いている気配がしないだろうか。いい感じの風が」とあり、自分も10年くらい前に2年間ほど仕事で茅ヶ崎に滞在していたこともあってこの感覚を理解できるし、浜竹の地名を久しぶりに聞き懐かしく思った。

 

掲出歌は巻頭歌である。店屋なのか自宅なのかわからないが、上句は現実にあったであろう眼の前の出来事を描く。下句の「皮が破れる方の餃子だ」に作中主体の屈折と自嘲が如実に表れる。と同時に、この歌が第1歌集の巻頭に置かれることで自己紹介の意味合いも出てくる。ここで読者は興味を持つし、導入として絶妙である。

 

 

顔を上げると向かいの席にいる人がまるごと別の人になってた
新しい横断歩道のまぶしさが浄化装置のようできびしい
もうここは朝の終わりの辺りだな吊り革の手を左に変える
「次はしゃけぇ、しゃけぇ」で笑う声はある我は笑わず社家駅なれば
鼻先を納豆の糸ふゆうする我から抜けたDNAっぽく

 

 

印象に残った5首を挙げてみたが、これはそのときの心境でもしかしたら歌が一変するかもしれない。それくらい『浜竹』の作品は多彩で詠まれる題材も幅広い。強いて言えば、食べ物に関する歌の比率は他に較べて多いかもしれない。5首いずれも作中主体が実際に体験したであろう比較的卑近な事柄や景色が淡々と詠われるが、世界の狭さを感じさせない。対象の切り取り方や描写力は確かで、特に物事を言葉にするときに省略する力に長けている。その省略が現実の異化と独特の味わいを醸し出している。やや斜に構えたものの見方やとぼけたようなユーモアが歌集全体に漂うが、露悪的なところはないので嫌な印象もない。また、口語と文語を縫うように選択される語彙が不思議な読後感をもたらす。何より読んでいて楽しく、随所で微苦笑を誘う。

 

 

小便を仲立ちにしていま俺は便器の水とつながっている
府中競馬正門前行にわれ乗れば即ち至りぬ府中競馬正門前に
歩いてる馬はだいたい首垂れて何を見てゆく馬の目黒く

 

 

『浜竹』には、先行する歌人の影響が見て取れる作品も見受けられた。多くの歌から斉藤斎藤の影響を感じたし、引用歌では1首目は森本平の歌にありそうだ。2首目は奥村晃作が詠みそうである。3首目は言葉の捌き方に花山周子っぽさがある。断っておくが、それが悪いと言いたいのではない。第1歌集である。先行する誰かの影響を受けていない方がめずらしい。しかも相原の場合は、他者の影響は作品の振幅と大きく関わっている。

 

たまに「人の影響を受けたくないから、人の歌集は読みたくない」という人がいるが、自分に言わせれば笑止千万である。大量のインプットなくしてアウトプットはできない。インプットの際に先行作品の影響を受けることは普通のことだ。そしてその影響を払拭するには年単位の時間がかかる。時間をかけて自分の世界を構築すればいい。

 

相原の独自に事物を把握し描写する能力は疑いない。先程挙げた他者の影響はそう遠くないうちに洗練されると思うし、それはまったく心配していない。そして洗練の先にどのような作品世界がさらに展開されるのかを楽しみにしている。