田口綾子/非常勤講師のままで結婚もせずに さうだね、ただのくづだね

『かざぐるま』(2018・短歌研究社)


 

私は前回、田口の歌の「立っている足場そのものが崖のような場所であること、いつでも墜落しそうな場所に図らずも立ってしまっている」ということを主に、「歌の私の立つ場所」としての「崖」というところで考察していた。そしてこの点が現時点で平岡の指摘している「歌の運用」の話を逸脱している部分で(今日はもっと逸脱するのですが…)、私が厳密にこれを切り離しているのは、なにより平岡があの文章でそのラインを守っているからであり、その文章の在り方を尊敬しているからだ。そして実際にこうやってそのラインを踏み外すと、歌に書かれていることの「意味内容」への共感とか、作者であるところの田口綾子という人への好意とか、そういうことを芋づる式に呼び込んでしまう。それはそれでこの歌集が引き出している大切な感想なんだけど、歌そのものへの評価が見えづらくなってしまうのだ。

 

そしてさらにやっかいなのが、「歌の私の立つ場所」としての「崖」がたとえば、

 

非常勤講師のままで結婚もせずに さうだね、ただのくづだね

 

こうした歌に象徴されるような、「非常勤講師」、「未婚」といった「社会的に不安定な立場」ともリンクしてしまう。そのままリンクさせてこの歌集から「現代社会に生きる人間の切実さ」を汲み出して評価することはできるし、これもまた大事な仕事だとは思うのだけど、そうすると私が書きたいことを見失ってしまう気がするのだ。

 

この「非常勤講師」の歌などにも触れながら批評会の会場発言で、錦見映理子が、「歌集というものは一般的に作者の人生が詰まっていることの重さがあるし、この歌集はさらに十年分という時間の重さもあるのだけど、あまりそういう重さを感じずに楽しく読めた。重い内容が詠われてもいるんだけど、読むときの負担にならなかった」というような感想(これもメモなので正確ではないのですが)をしていてほんとにそうだなあと、なんでかなあとぼんやり考えてしまって、それでじゃあ負担にならずに読めたからと言って、心に触れなかったかというとそうじゃなくて、私はこの歌集を読みながら笑えてしかも何度もうっ、とこみ上げてしまう。一首一首に対してそうなるわけじゃなくて、読んでいるうちに突然こみ上げてしまうのだ。別に現代社会を生きるものとして共感したとか、切実さに打たれたとかいうのとも違って、でもともかくも自分がときに嗚咽してしまったことが批評するときの引け目になっているのは確かで、この歌集を自分がどこまで客観的に見ることができているのか不安がある。でも、こんなふうに人を嗚咽させること自体すごいことだと思うんだよね。だからこそ、「現代社会に生きる人間の切実さ」みたいなステレオタイプな批評でじゃなく、ちゃんと評価したいという気持ちがある。

 

非常勤講師のままで結婚もせずに さうだね、ただのくづだね

 

それで、ともかくも私はこの歌を足掛かりに、「重くならない」、あるいは、批評会のなかでは「読者に開かれている」という指摘もあったと思うが、そういう理由について批評会中考えていたんだけど、まず、この歌って会話としてのリアルがある。親になんかつべこべ嫌味言われて、「ああそうですね、はいはい」みたいな物言い。自分のほうで即座に引き取っちゃう。さらに上乗せして「くづだね」となる。この捨て鉢の「さうだね、ただのくづだね」が歌に定着されていることが、まず、短歌のなかではほとんどやられていないところなんだと思う。5月15日に書いた山川藍さんの「「天国に行くよ」と兄が猫に言う 無職は本当に黙ってて」がかなり近い要素があるんだけど、とりあえず、ここでは田口さんの歌の話にとどめて言うならば、ふつう、このモチーフを歌にする場合、「非常勤講師のままで結婚もせずに」のあとは「…」みたいにして、場面を転換すると思うのね。自分が皿を洗ってるとか、雲が流れていくとか、なんでもいいんだけども、余白として差し出す。だから読者はその余白を共有することになる。それがこの歌では、こちらが何かを受け取るより先に「さうだね、ただのくづだね」と言われて、こっちは何も考えなくてよくなる。余白にあったはずの心の重さとかを受け止めて、共感するという手続きをする前に電源切られて、強制終了されてしまうのだ。それだから、立ち止まらずに次の歌を読めてしまう。

 

前回の、

別に期待してないけど、と言はるれば怠る今日の手洗ひ・うがひ

 

この歌もつくりがよく似ていて、だから馬場めぐみさんがあんなふうに丁寧に「手洗ひ・うがひ」が「自分を大事にする行為」なので「それができなくなってしまう」と言ってくれなかったら、私はこの歌が崖に落ちていることにちっとも気づかなかったのだ。

 

だからこの二首に関して言えば、読者を立ち止まらせないことが結果的に重さを回避している。それは翻せば作者自身がそこに立ち止まっていられないというこの場の心理、あるいは思考パターンということもできるだろう。前回の「教室へゆけどもわたしに師はをらず生徒には背を向けて板書す」の「には」もそうなのだが、崖の存在を無視することの防衛がこれらの歌では働いているのだ。そして、この「自己防衛」が図らずも読者にも負担をかけないという奇妙な構造が生まれているのは、ただ単に読者を立ち止まらせないからというよりも、これが実際に田口が現場に立ち合うやり方だからなのではないだろうか。辛いときのやり方。そんなふうに私が思うのは、一般的には「自己防衛」は歌を自閉的なものにするのに、この歌においてはそれが風穴を開けるパワーにもなっているからだ。「怠る手洗ひ・うがひ」も、そして「さうだね、ただのくづだね」も、自分が受けたダメージに自ら自己否定を上乗せしていく方向であるのだが、そこには攻撃は最大の防御とでもいうような、あるいは転んでもただじゃ起きないといった、とにかくネガティブに行くことの積極性がある。「生徒には」という言い方もどこか「ふん!」という気概がある。それはやっぱりパワーなのであって、だから、ここに定着されている「自己防衛」とは読者に対してとか、作品を作る際のプライドとかそんなせせこましいものではなく、彼女が生きることに直結した術であり、生き抜くパワーなのだ。それが読者にも有効に働く。それほど現場に直結したところから歌が出てきているのであり、睦月都が言っていたように「直面したときにゼロから歌を立ちあげている」のだ。だからこの歌では「自己防衛」の部分が強度となって、山川藍さんの「捨て身の自己完結」とも違う田口綾子独自の歌柄を立ち上げている。

 

だから、田口の歌がメタではないのは、そういうメタさを生むような歌との間に取られるはずの一定の距離がないからで、現場に立ち合うときの「生きる手段」がナマモノとして無防備に露出してしまっていて、そしてそんな根源的なものが歌に定着されているってたぶん凄まじいことで、私が嗚咽させられてしまう原因はたぶんここにあるのだと思う。

 

そして、ここでも「自己防衛」が結果的に「読者に開かれる」という大きな「ブレ」が生じているのだ。

 

つづく。