山川藍/「天国に行くよ」と兄が猫に言う 無職は本当に黙ってて

山川藍第一歌集『いらっしゃい』(角川書店・2018年)


 

今日のこの一首は、以前にも何回か書いたりしゃべったりしているし、山川さんの歌には他にも面白いものがたくさんあるのにやっぱりこの歌を取り上げようと思うのは、SNSが急速に普及した今日の言語空間のなかでこの歌について考えることは何かの突破口になるように思うからだ。

 

無職は本当に黙ってて

 

もし、昨今、こんな発言をテレビの中で誰かが発したとすれば、炎上は間違いない。
それを発言した人物によってはデモさえ起こりかねないだろう。
にも、拘わらず、この歌を読んで腹を立てる人はまずいないはずである。
それは、これが「内輪の言語」として発せらていることが即座に読者に了解されているからだ。この歌は「無職は本当に黙ってて」の対象が、「天国に行くよ」とう兄の発言に向けられていること、「天国に行くよ」という兄のセリフと「無職は本当に黙ってて」が相互に補完し合うことで、兄と私の関係性、さらには兄と私の性格、つまりそういう兄と私のこれまでの歴史が作り出すこの場の空気を見事に再現しているからこそ、「無職は本当に黙ってて」を「無職は黙っていろ」という一般的な意味内容から切り離し、その時、その場の絶対性を獲得している。31音で、それを実現している。

 

SNSのなかでも殊にツイッターの普及がもたらした一番大きな変化は、プライベートと公の境界線が失われたことではないだろうか。そこでは内輪の言語が突然、公の場で非難されることが起こり得るし、また、たとえば、テレビの前で家族に言うような役者の悪口が、直接にその役者の目に読まれたりもする。もしかしたら長年のファンがファンだからこそ言う悪口かもしれないし、横にいる家族の誰も賛同しないなかでの発言かもしれないが、そういう言葉の出てきた場を失って単発の言葉として飛び交う。公とプライベートの境界を失うことは、その言葉の出どころを喪失することになり、言葉は文字通り表面化し、意味内容そのものが人の反応を引き起こす。けれども、言葉にそもそも意味内容それだけのものなどあるのだろうか。すべての言葉は、ある状況下のもとに何かに向けて発せられるのであるし、その状況や、向けられた何か、が見えない言葉には、結局、それぞれがそれぞれの想定する「状況」や「何か」を当てはめて読み取ることに基本的にはなるだろう。「無職は本当に黙ってて」を聞いて「無職の自分が社会に対し、モノ申してはいけないのか」というふうに当てはめる。けれども、山川藍の歌はそれをさせない。「内輪」つまり、ここが自分のお座敷であることをはっきりと読者に示すことで、それを回避しているからであり、彼女の歌の捨て身の自己完結は現今の言語状況に対しての抵抗となり得ている。この社会に生きるものとして彼女の歌の自己完結のあり方そのものがパワフルなのである。