生沼義朗


森岡貞香/今夜とて神田川渡りて橋の下は流れてをると氣付きて過ぎぬ

森岡貞香『百乳文』(砂子屋書房・1991年)
※『百乳文』は砂子屋書房の現代短歌文庫124『森岡貞香歌集』に全篇収録されている。


 

森岡貞香の作品を読み解くのは、現代短歌における難問のひとつだと思う。より正確に言えば、読めば質の高い歌であることはわかるが、それを的確に言語化することが極めて困難だということだ。

 

5月12日の日曜日、自分が所属する「短歌人」の東京歌会が開催された。東京歌会では2ヶ月に一度、歌会終了後に2時間ほど短歌作品を読み合う研究会を行っている。パネルディスカッション形式で行うこともあるが、このときは発表者があらかじめ作成したレジメを基に基調発言を行い、それに対応して参加者が順次会場発言をしてゆくオーソドックスなスタイルだった。テーマは「森岡貞香の歌に詠み込まれた多様な時間の相」で、発表者はもともと森岡門下だった時本和子、司会は不肖自分が務めた。

 

〈時間〉というキーワードは、森岡の作品が語られる際には頻出する語彙のひとつだろう。掲出歌は第6歌集『百乳文』の巻頭歌。夜、神田川に架かる橋を渡りながら、橋の下には水の流れがあるとあらためて気づきながら橋を渡った、というとりあえずの意味内容の解釈はできるが、一首を味わうとなると途端に行き止まってしまう。

 

それでも、この歌がいわゆる認識の歌に留まるものではないことはわかるし、作者が普段なかなか認識しない橋の下の流れという空間を把握しようとする行為を通じて、時間の流れを知覚しようとしていることはわかる。

 

 

けれども、と言ひさしてわがいくばくか空閒のごときを得たりき

 

 

時間をキーワードにしたときによく引用される歌で、実際時本の発表でもレジメにこの歌は引用されていた。おそらく会話の相手がいて、「けれども」と言いさした。そのときに「いくばくか空閒のごときを」得たというのである。二句までの解釈は迷わない。しかし、三句以下をどのように読めばよいのか。「空閒のごとき」は、何かひろびろとした気持ちというか、視界が展けるような感覚と解釈した。この「空閒」には、今までに自分が生きてきた、およびこれから生きるであろう時間もおのずと含まれている。

 

この歌に限らず、森岡の空間および時間把握の感覚は濃密かつ独特であることは論を俟たないが、重要なのは空間と時間が密接に相関し合っていることだ。さらに、この歌もいわゆる認識の歌に留まるものではないが、自身の認識を洗い直す意図および効果があることは間違いない。その認識はおそらく自分は何者かという問いから来ていると考えるが、そうした問いと時間や空間の独特の把握が複雑に絡む。

 

また、たとえば掲出歌の音数が59677であるように、全体に増音傾向の破調が見られるのも森岡作品の特徴である。この破調が、うねりを含んだ不可思議な韻律を産み出し、前述の問いや時間空間の独特の把握と絡みあうことで、独自の重厚な文体を構築している。

 

当日は連休明けのせいか参加者が25名程度と少なく、また時間に比較的余裕があったので見学者以外の全員に発言してもらった。そのなかで生前の森岡と面識のあった蒔田さくら子や小池光の発言は、持っている情報をテキストに肉付けしてゆくような感覚があり、説得力があった。テキストのみを読むべきという考え方は当然だし、特に森岡の場合はその最たる歌人という気がする。一方で、短歌は作者の来歴を読解に組み込んだ方がより読解が深まることがあるという意味で少々特殊なジャンルである。森岡のうねりを含んだ複雑な文体を読み解くにはどの方法がベストなのか、もう少し自分でも考えてみたい。