山川藍/販売員であった過去がためらいもなく紙袋を底までひらく

山川藍第一歌集『いらっしゃい』(角川書店・2018年)


 

言っていることはよくわかる歌で、誰にも仕事やバイトで身に付いたこうした習慣やテクニックがそこを離れたあとでも形状記憶のように体に残ってしまうことがある。別にそれで損をするわけでもなく、寧ろ、役立つことは多いわけで、仕事やバイト、そのやめた経緯は思い出したくない場合でも、獲得したテクニックだけは私に回収され、以降何ごともなかったかのように(かすかな痛みを伴ったとしても)私は私のものとしてそれを使い続けることは多い。だから、こうしたスキルは身につける時点では社会が自分に要求しインプットするという意味で私は社会に対し受け身の立場であるわけだけど、そうした様々な環境を貫く生まれたときから今に至る「一本の私」というものは案外、タフなところがある。けれども、今日のこの一首は、そうして獲得した「紙袋の底までひらく」という一連の動作が、「一本の私」をそのたびに破壊している。

 

この歌の「過去」という言葉に注目する。ここに意味的に近い言葉を当てるとすれば「経験」、「記憶」、などになるだろうか。これらは、「一本の私」の所有物として現在の「私」に引き継がれているものである。けれども、「過去」はその点において別の意味を持つ。「過去」は「現在」と明確に区別されているはずだからだ。それは、「現在」から切り離されたものとして私に取り扱われている。にも拘わらず、体にインプットされた動作のほうが、それを、ためらいもなく開くのだ。「紙袋を底までひらく」というてきぱきとした動作が同時に自分の「販売員であった過去」をも眼前に暴いてしまう。ここにおいて、歌の主語は「現在の私」ではなく「過去の私」であり、さらに、「過去」そのものが主語となる。「販売員であった過去がためらいもなく紙袋を底までひらく」には、もはや現在の私が入る隙はどこにもない。一気に、「過去」が私を乗っ取るのを、現在の私は傍観するのみである。動作によって引き起こされる感覚に自分自身が埋没するような怖さがこの歌にはある。

 

あと、前回の「「天国に行くよ」と兄が猫に言う 無職は本当に黙ってて」の歌、の特に「内輪の言語」についてもう少し詳しく書いて欲しかったというご意見をいただき、確かにだいぶはっしょってしまっていたので、以前書いた(しゃべった)ものも貼っておきます。→「いらっしゃい新聞」3号