鈴木英子/髙瀬さんも眼鏡、市原さんも眼鏡 もういないひとのやさしい眼鏡

鈴木英子『油月』〔セレクション歌人16『鈴木英子集』所収〕(邑書林・2005年)


 

「髙瀬さん」は5月11日に取り上げた髙瀬一誌を、「市原さん」は5月4日に取り上げた市原克敏を指す。髙瀬一誌は2001(平成13)年5月12日に、市原克敏は2002(平成14)年5月3日に歿している。

 

髙瀬も市原も縁の太い眼鏡がトレードマークだった。「髙瀬さんも眼鏡、市原さんも眼鏡」はその事実を踏まえている。眼鏡の印象的だった髙瀬と市原の在りし日の姿を思い出しているとともに、そのふたりが「もういない」ままに過ぎ去った20年近い時間を静かに振り返る。特に、「髙瀬さんも」と「市原さんも」の「も」に歳月を噛みしめるようなニュアンスが灯る。

 

韻律の面に眼を移すと、強引に定型に当てはめれば「髙瀬さんも/眼鏡、市原/さんも眼鏡」と読むこともできるが、「髙瀬さんも眼鏡、/市原さんも眼鏡」と初句九音に二句十音で三句がないと読んだ。定型に則ることも大事だが、この歌に関しては真情にもとづく言葉の勢いを優先したいからである。

 

下句の「もういない人のやさしい眼鏡」は、事実を端的に描く。「やさしい」は一見むき出しの表現に見えるかもしれないが、「眼鏡」と合わさることによって思慕の感情が率直に表れている。同時に、眼鏡をかけたふたりのやさしい笑顔が容易に思い浮かぶ。一方でその奥に冷静な眼があるような気もするのだが、これは多分に個人的な感情および読みに過ぎない。

 

髙瀬は亡くなって今年で18年、市原は17年ということになるので、両名と面識のあった人は比率的にもう少ないと言っていいだろう。余談だが、自分は両方にまみえたことがあり、髙瀬はもちろん「短歌人」の大先輩として入会以来、市原はたしか森本平歌集『個人的な生活』の歌集批評会でお目にかかったのが最初ではなかったか。

 

下句の表現を実感として感受できる人は今では少ないかもしれない。もちろん、髙瀬一誌および市原克敏の作品はもちろん、人柄をも知っていた方が掲出歌の理解が進むことは間違いない。しかし仮に実感できないからと言って、作品の価値が変わってくる訳ではない。重要なのは、思慕と敬愛の念にあふれていることであり、時間が経っても在りし日との在りし時間を振り返っていることだ。そこに掲出歌の価値があるし、亡き人を偲ぶ歌の意味がある。