純多摩良樹/食事後の獄は最も静かなりその寂けさのひとときを堪ふ

純多摩良樹『死に至る罪』(短歌新聞社・1995年)


 

前回はオウム事件の中川智正元死刑囚の歌(作られたのは死刑確定直前だが)を取り上げたが、今回取り上げる純多摩良樹(すみたま・よしき)も元死刑囚だ。ちなみに純多摩良樹は筆名である。

 

純多摩は、1968(昭和43)年6月16日午後3時頃、国鉄(現・JR東日本)横須賀線の上り東京行が大船駅の手前付近で、網棚の荷物に仕込まれていた時限爆弾が爆発し、死亡1名と重軽傷者14名を出した事件の犯人である。動機は、結婚を約束していた交際相手と破局した鬱憤を晴らすためという身勝手なものだった。被害に遭った人は全員関係のない観光客で、横須賀線を選んだ理由は元恋人が通勤の際に利用していたからだが、犯行当時は既に別の地で別の男性と暮らしていたため列車を利用することはなかった。

 

純多摩は事件当時25歳。一審二審とも死刑判決で、1971(昭和46)年4月に最高裁で死刑が確定した。短歌をはじめたきっかけは同じ東京拘置所に拘置されていた死刑囚の影響だという。また死刑確定の年の11月に「潮音」に入会し、太田靑丘に師事した。時期はわからなかったが獄中でキリスト教の洗礼を受け、キリスト教関連の月刊紙に頻繁に短歌を投稿してもいたらしい。

 

『死に至る罪』は5部構成で688首が収められており、これは純多摩自身が編集したものである。掲出歌は、第二期と題する第二章にあたる章の歌。意味内容にわからないところはなく、刑死を控えた状況と心情が率直に表れている。「食事」は三食のいずれかは明記されておらず、前後の歌を詠んでもはっきりしないが、おそらく365日どの食事においてもということなのだろう。「静か」な理由は、ものを食べる行為を通して生命への思惟に耽るからか、単に獄中における数少ない楽しみの時間の余韻を噛みしめているのか。「最も」は一日の中でもっとも、と読んだ。「ひととき」だから客観的にはそれほど長い時間ではないと思われる。しかし、残された時間に限りのある死刑囚にとっては果てしなく長い、そして堪えがたい時間だろう。もちろん、その堪えがたさは因果応報であり、また刑死をもって罪を償う人間には必要な時間でもある。それがわかっているからこその表現であり、一首なのである。三句の「静か」と四句の「寂けさ」で表記を変えているのも意識的で、「寂けさ」には作者の心情が如実に反映されているがゆえにこの漢字を選択している。

 

 

極刑は已むなきものと告げにつつ裁判長は杳(とほ)き眼をする
アルミ食器の底より現はれし小魚の瞳(め)のやさしきにいたはりて食ふ
グァム島に二十八年生き延びし人あり戦死の父をし憶ふ
バイブルの〈死に至る罪〉を目にとめて忙しき獄のひととき黙す
石油の記事やたらに多き朝刊を目貼りにつかひ真冬にそなふ

 

 

『死に至る罪』の歌はどれも意味内容や描かれる景色は明瞭である。前回の中川の歌は自己の心情と思考に比重を置いた表現だったが、純多摩は徹底的に具体的な経験や自身が見聞きした事物をまず描き、そこに自己の心情や思考を重ねてゆく方法を取っている。

 

そして興味深いのは、拘置所の独房という極めて狭小な空間から実に多くの多彩な具体を、歌の題材として採取していることである。さらに、現在の拘置所とは運用もずいぶん違うであろうことが歌集の随所から窺い知れ、例えば新聞を窓の目張りに使うなどは、今の拘置所では許されないだろうし、そもそもその必要もないだろう。こうしたところに一般の生活者が知り得ない情報があると同時に、その体験がリアリティをもって一首一首の歌に込められ、作品として読者に迫ってくる。

 

純多摩は1975(昭和50)年12月5日に死刑が執行された。32歳歿。純多摩は生前に歌集を出したい旨を語っていた。背景には、牟礼事件で死刑判決を受けた佐藤誠への意識があったとされる。佐藤は歌誌「スズラン」の主宰として、獄中で歌誌編集に携わったり同人の作品を添削するなどの活動を行っていた。歌集も生前9冊・死後1冊の歌集を出版している。純多摩の支援者らは遺族の心情に配慮してしばらく待つように説得したが、純多摩は支援者らの面会を拒否するようになったという。

 

純多摩は死の直前に、精神的支柱と仰いでいた作家の加賀乙彦に歌集稿を託した。加賀は純多摩を題材にした小説『宣告』(新潮文庫)を著し、『死に至る罪』でも序文を記している。加賀と、加賀から原稿を受け取った太田靑丘が、純多摩の歿後諸方面に熱心に働きかけ歌集出版にこぎ着けようとしたが、被害者遺族の心情を慮って一度断念している。1980(昭和55)年には、純多摩の中学校の同級生がコピーによる私家版歌集を製作し、純多摩の友人知人などに配られたという。結局、純多摩の遺族が遺骨の引き取りを承諾したこともあって、二十一回忌にあたる1995(平成7)年に『死に至る罪』は公刊された。

 

それにしても、純多摩が短歌に没入した動機や思いもさることながら、歌集出版にここまで固執した理由は何だったのだろうか。被害者への贖罪だけなら作品を遺族に届けるだけでも充分で、歌集の公刊にそれほどこだわる必要はない。自己顕示欲という言葉だけでも純多摩の行動を充分には説明できない気がする。とすると、純多摩のような愚かしい行為をする人間を今後出したくないという彼なりの思いだったのではないか。それが『死に至る罪』を読んでの自分なりの結論である。