田口綾子/過去形がかくもさびしきものなるを分かちあふためにやは別れは

『かざぐるま』(2018・短歌研究社)


過去形がかくもさびしきものなるを分かちあふためにやは別れは

 

前回は、この歌について、「にやは」という古語に注目して書いたのだけど、「にやは」は当然ながら単独でここにあるのではなくて、文脈やその他の語彙によってここに生かされている。私はこの歌について「このさびしさのために別れたのじゃなくて、互いに幸せになるためなのだ、みたいなわりと通俗的な物思いがベースにはあるのかもしれない」と書いたけれど、だとしても、そのことをどのように言うかを考えるときこの歌の取っている思考のプロセス、文脈はちょっと変わっている。どう変わっているかというと、

 

「過去形」という現代の文法用語によって二人の現在の関係性を唐突に差し出すやり方は、「春浅き大堰(おおゐ)の水に漕ぎ出だし三人称にて未来を語る」(栗木京子)といった現代短歌のレトリカルな方法を踏まえていなければできない。次にはその「過去形」が「かくもさびしきものなるを」と言っていて、これはかなりベタな物言いで「過去形」の現代的なレトリックのモードとは違うし、あるいは、古めかしい言葉つきではあるものの和歌的というのとも違う。この直接的な感情表出は近代的な「私」をベースにしたときに出てくるものだ。そういうモードの違うものを強引に和歌的文脈にねじ込んでいくのが、「分かちあふため」であり、これによって「にやは」という反語が生かされることになる。そしてこれは「ため/にやは」と四、五句にかけての句跨りになって定型にねじこまれ、結果、結句は3・4のリズムを取って、「別れは」というふうに、それが別れの話であることが末尾に至って生クリームを絞り出すようにして明かされるのだ。

 

別れたことによって今現在ここにある「さびしさ」を言うのに、ものすごく回り込んだ言い方をしながら、しかもそこには様々な思考モードが混在していて、とてもじゃないけど、これらの語彙を並べ替え、歌をつくりなおすことは不可能であると思う。ここでは、うにょうにょと物思うそのプロセス自体が力技となって様々なモードさえ取り込みながら歌を運んでいるのだ。

 

だから、たとえば「過去形」が現代短歌のレトリックとして歌を安定させるような、「かくもさびしき」が近代短歌の王道として「私」を強固にするような、「にやは」が古典のレトリックとして、歌を重層的にするような一首を成立させる核=根拠として、ここにあるのではなく、一語一語がその場における核を成し、「結果」としてここにある。

 

一首を俯瞰して言葉を配置しているのではなく、歌の中にあるプロセスが結果としてそこに言葉を齎していく、そういう歌の在り方がまさに平岡の言うところの「自力で歌を運ぶ」ということなのであり、入れ替えのきかない、後戻りのできない「この文体のうしろ」はまさに「崖」なのであり、それこそがこの歌を成立させている「根拠」なのである。

 

それで、だから、もうくどすぎて自分でも嫌になるんだけど、
この歌にある言葉というのは「田口綾子という今の人間の現場」なのだ。だから、「にやは」は和歌的意匠としてここにあるんじゃなくて染野太朗が言っている、「現在の僕たちに対してひらかれた、言わば『最新の古語』」なのである。

 

そしてここで面白いと思うのが、田口の歌にある「古語」は、学校教育における「古典文法」がベースになっているということだ。これは、染野太朗と大辻隆弘が指摘していたことで、二人とも田口綾子と同じ高校の国語教師であるからして間違いないだろう。だから二人の言うところでは、田口の歌にはかなり厳密に教育現場の原則に則った「古典文法」が使用されていて、そういうお勉強のための形骸化した古典文法が生きた形で使用されているっていうのが、何より面白いことだと思う。だいたいこの歌って内容自体は演歌みたいなもんで、そんなに面白い歌じゃない。そういう使い古されたモチーフを、形骸化した古典文法でもって、血肉化している。通り一遍に作られてしかるべき内容なのに、妙な内実を伴っているのである。

 

いい加減切りあげなければという焦りがあり、なるべく次回で終わらせます。