生沼義朗


岡下香/人生も料理の味も旨味を出すほんの少しの匙加減 その匙がない

岡下香『終わりの始まり』(2006年・未来山脈社)


 

岡下香(おかした・かおる)は、1989(平成元)年発生の杉並資産家老女殺害事件の犯人である。不動産ブローカーの岡下は、内縁の妻(後に詐欺罪で懲役5年が確定)と共謀して東京都杉並区でアパートを経営する一人暮らしの当時82歳の老女から土地を騙し取って転売し、約2億円を得た。老女は殺害され、さらに金の配分で揉めた共犯者の男性も拳銃で射殺され、首を切られた上で岐阜県内の山林に遺棄された。その後6年弱に渉って日本各地で逃亡生活を続けていたが、1995(平成7)年6月に内縁の妻とともに茨城県内で逮捕された。直接の容疑は覚醒剤の所持使用だった。後に犯行を自供し、一審は無期懲役、二審が死刑判決で、2005(平成17)年に最高裁で死刑が確定した。

 

掲出歌は口語自由律のいわゆる新短歌だ。岡下は未決勾留中の2004(平成16)年に結社誌「未来山脈」を知って入会し、光本恵子に師事した。短歌を作った死刑囚は他にもいるが、新短歌を作って歌集を出した死刑囚は少なくとも自分は他に知らない。ちなみに、岡下香は筆名でなく本名である。

 

前々回の中川の歌は自己の心情と思考に比重を置き、前回の純多摩は徹底的に具体的な経験や自身が見聞きした事物を描いた上に自己の心情や思考を重ねる手法を取るが、岡下も中川同様自己の心情と思考の描写が主体になっている。これは岡下が新短歌を選択したこととも大きく関係するが、岡下の表現したい内容や方向性が新短歌を選ばせたと考えるのが妥当だろう。またどの歌も語彙は平易で読解はそれほど難しくないのも、新短歌の特徴およびモットーともかかわっている。

 

拘置所の食事は、健康面の配慮もあろうが味付けが全体に薄いのだろう。巻末の「東京拘置所での生活」と題する文章で独房内での食事に触れられており、「時折、差入れ弁当に恵まれた時は、本当に涙が出るほど嬉しいです。(略)それに味付…全てが社会の味付…社会生活を思い出すんです。特に、コショウの味は、うまく文字に表せぬ喜びで囚れの身になるまで知ることはありませんでした」とある。この文章には拘置所の外の味付けに対する憧憬が漂うとともに妙なリアリティがあるが、掲出歌の持つリアリティとも通底するものがある。

 

「人生も料理の味も旨味を出す」は率直に言って人生訓的な理屈を感じてしまいあまり感心しないのだが、「ほんの少しの匙加減」には先程触れたリアリティが含まれている。何より「その匙がない」に拘置所に居る現状を噛みしめる実感が籠められ、このような状況になってしまった後悔の念も滲んでいる。「その匙がない」が結句に置かれることと、一字空きの効果も計算されたものだ。

 

『終わりの始まり』の巻末には先に紹介した「東京拘置所での生活」と題する文章や岡下による自歌自注、一日のタイムスケジュールや岡下による独房の見取り図のイラストが収録され、歌の読解の一助になっていると同時に、一冊の資料的価値を高めている。また、奥付に岡下のおそらく逮捕前の写真が掲載されているのもめずらしい。

 

『終わりの始まり』は2006(平成18)年十二月に刊行されたが、この時点で岡下は確定死刑囚であり、2008(平成20)年4月10日に執行された。61歳歿。死刑囚の歌集は多くが刑死後に刊行されており、生前に歌集が出ているのは連合赤軍事件の坂口弘と、前回言及した牟礼事件の佐藤誠ぐらいである。あとがきによれば、短歌の師である光本恵子から、協力者を募って歌集を残さないかとの話があったという。なお佐藤は逮捕時から一貫して冤罪を主張しており、獄中で生前に九冊もの歌集を出したのはその主張を社会に届ける目的も関連している。ちなみに佐藤は死刑未執行のまま1989(平成元)年に81歳で病死しており、坂口の死刑も現在に至るまで執行されていない。

 

 

荒川を渡る一番列車の音を春風が運んでくる今日の命も乗せて
都には愛の泉よりもっと広くて深い欲の泉があり死に場所となった
未来への道はゼリー状 固まるまでにまだ何かが出来る

 

 

断っておくが、『終わりの始まり』の歌はたしかに悔悟と謝罪の念にあふれているが、短歌作品としては正直あまり評価しがたい。岡下が新短歌というジャンルを選んだこともベストの選択かと言われれば、自分は否と言わざる得ない。作品の意味内容と新短歌のリズムがそぐわない印象を抱くせいもあるかもしれない。

 

前回、前々回と死刑囚の歌を取り上げた。読んでいて嫌な気持ちになった方もいるかもしれない。今までに獄中で短歌を残した死刑囚は実は何人もいる。島秋人や坂口弘がよく知られる存在だが、吉展ちゃん誘拐殺害事件の犯人小原保も死刑確定後に400首近い短歌作品を残している。死刑囚をはじめとする囚人が短歌を詠む理由については前々回で自分なりに言及しているので繰り返さないが、短歌の器の機能と可能性を考える上でこの考察に意味がないとは決して思えない。今回は死刑囚が新短歌を表現の手段として選択しためずらしい例として、岡下の作品を取り上げてみた。