花山周子


田口綾子/寒からばベーコンいちまい身にまとひ生(なま)ベーコンエッグと名乗らまし

『かざぐるま』(2018・短歌研究社)


 

前回私が書いたことというのは文体自体が一回性の上に成り立っているといことだ。それで、それは「過去形がかくもさびしきものなるを分かちあふためにやは別れは」に限ったことではなくて、歌集中のどの歌にもたぶん言えることなので、機会があれば確かめてみてほしいんだけど、何より、たまたま「にやは」に注目してあの歌にとっついただけなのにあんなに書けてしまう、それほどにどの歌も胸ぐら摑めるだけの肉体を持っている。

 

で、今日、私が最後に書いておきたいことというのは、一首の文体に見られた一回性というものが、連作によっても成立させられている、ということだ。田口の連作には「今日の男子校」とか「連れていつてもらふ」(このタイトル…しかも旧仮名…)という自分をゴミだと思う一連とか、「たましひに寢る」っていう蒲団の一連とか、ほんとに面白いものが多くて正直どれも語りたいとこなんだけど、なかで「ぐでたま」って連作について書こうと思うのは、この連作がパロディ、二次創作でもあるからだ。

 

先に「ぐでたま」についてウィキの解説を要約しておくと、2013年にデビューしたサンリオのキャラクターで、デザイナーのAmyが卵かけご飯の卵の姿に「不景気なご時世に絶望して優秀なのにがんばらない現代人」の姿を重ねて合わせたところから発想が得られている。ぐでぐでとしたやる気のない卵で、オムレツや卵焼きなどに調理されてもだらしのない性格が変わることはなく、その行動はさとり世代がヒントになってもいる。

 

ということで、まあこういうキャラクター設定を知らなくても、

 

ぐでたまとひとはよぶなりうつぶせにだるさのままに寝そべりをれば

 

一首目でこう書かれたとき、「私」のこととして十分にわかる仕組みになっていて、さらに次の歌では、

 

たまごとは生(せい)とやいふべき殻の外のこの世に逢はざるものばかりなり

 

というふうに田口独自の思考プロセスが呼び込まれ、
執拗にこのモチーフで歌が展開されていくが、それがなんていうか、一首をつくっては次の一首がまた無理やり絞り出されていく感じがして、それが田口の短歌創作のメカニズムを物語っている。

 

寒からばベーコンいちまい身にまとひ生(なま)ベーコンエッグと名乗らまし

 

それで、結果として、こんなヘンテコな歌が生まれてしまう。
調べたら実際にぐでたまが生ベーコンを毛布みたいにかけてるイラストがあるんだけど、それをただ描写するんじゃなくて、「寒からば」(寒かったならば)~「名乗らまし」(名乗っただろう)っていう、ベーコンをまとうことの、「その心は!?」みたいなところから、うねるように文体が編み出されている。ちゃんとした用法によって、大真面目に。

 

この連作においては、「ぐでたま」というキャラをパロディー的に使用しながら自分のこととしても煮詰める思考のプロセスの結果として一首一首がそこにあるのであり、ここでも、歌を配置するというような俯瞰的な作業がない。だからここには予測不可能な展開、「誰も考えないよ」みたいな奇妙なものが結果として定着されている。

 

田口の歌は、どこまでも「私」の思考や現場といった「私の地平」を歩くことで、結果として、人が行かないところに迷い込む。

 

7月3日に私は以下のように書いたけれど、
「そもそもの「作為」というべき足場の段階でブレが生じているからなのではないか。そしてここに私は現代における「ブレ」の可能性を見るのである。」

 

この、「足場の段階でブレが生じているということ」、どこを歩いているのか自分でもわからないままにがむしゃらに歌が紡ぎ出されていくことのスリルが田口の歌のダイナミズムになっていて、だからここでは短歌がこれまで積み上げてきたレトリックや短歌詩形に対するメタ性が無化されることになり、それらを田口自身のやり方で推し進めるという、創作の足場から何かが新たに再建されていると思うのだ。そういう現場として私は『かざぐるま』という歌集にこれからの短歌の可能性を見ているのである。