花山周子


平岡直子/無造作に床に置かれたダンベルが狛犬のよう夜を守るの

平岡直子「一枚板の青」(2019年・「外出」創刊号)


 

前回まで、私が東直子の歌に見出してきた様々な要素、なかでも真理を直観し、それを表現することについては多くの女性の歌にもともとあった特性のように私は思っている。けれども東直子の歌ではその「真理」を歌そのものが「予感の現場」になることで読者の側に直観させるのだ。そのような伝達の仕方が「口語のダイアローグ性」によって切り開かれているように思うのである。

 

そしてこうした東直子の歌は、たとえば穂村弘や加藤治郎、荻原裕幸以上に、無意識的且つ潜在的に以降の短歌作者に多大な影響を及ぼしているように私は思っている。にも拘わらずそれが東直子の影響としてきちんと認知されてこなかったのもまた、東の歌の伝達能力の高さ、浸透性の高さ、によるところが大きいのではないか。モノローグ的な歌(あくまで東のダイアローグ性に対置するときの)においてはその文体によって「私」というもの、「私の思考」が屹立しているが故に、それがクレジットとしても機能するのだけれど、東直子の歌では伝達そのものが文体化されているために、極論すればそのような意味でのクレジットがない。それは、最初から自分のものであったかのように他者によって内在化されてしまうのである。東の歌の現場が引き連れている気分や感覚、身体性とともに。

 

さて、であるからして私は平岡直子の歌が直接に東直子の影響を受けているなんてことは思っていない。ただ、東の歌の「伝達の通路」であるところの感覚や気分を引き連れながら生み出されていた「予感の現場」が平岡の歌ではよりクリアに「通路」そのものが取り出されていると私は感じているのだ。それは電流の回路に似ている。ほんの少しでも接続がうまくいかないと点かない豆電球のように、大きな電流を流せばすぐに漏電したり切れてしまうような導線が繋がれている。だから初期の平岡の歌は実際に豆電球が点かなかったり、導線が切れてしまっていることさえあって、私は当時そのような彼女の文体を「瀕死の文体」として説明しようとしたことがあった。けれども、今の平岡の歌はかなり複雑な回路を使っても豆電球がちゃんと点くし、そこそこ大きな電流を通しても漏電したり切れてしまうことはないように思う。

 

無造作に床に置かれたダンベルが狛犬のよう夜を守るの

 

この歌には非常に安定した電流が流れているので、ふつうの写実的な歌にも見えてしまうところが曲者なんだけれど、その安定を齎しているのは一つにはここが「夜」であることだ。盛んに世界が活動している昼間と違い、夜は静かで、忙しなかった時の気配がなくなる。その「夜」に「ダンベル」というあの体を鍛えるための重たい器具が置かれている。床に無造作に置かれていて、無造作でありながら重力世界の安定がここにはある。そして、ダンベルは二つ一組で使用されることが多く、ペアであることの安定がこの歌では「狛犬のよう」として取り出される。確かに、ペアのダンベルがごろんと置かれている姿はこう言われてみれば「狛犬のよう」で、しかもなんだかこの「狛犬」はとてもかわいらしい。

 

体を鍛える器具としての意味付けを切り離された「ダンベル」はここに物体としてのその姿を現す前に「狛犬」を通してもう一つの意味に切り換えられる。「夜を守るの」。

 

この歌にある一つ一つの「安定」は実は小さな電流によって繋げられている。言葉や短歌的文脈が予め持っている猥雑で多量のイメージの中から、ひとつひとつ細い針穴を通すようにして一つの回路が繋げられてゆく。一番わかりやすいところでは、

 

狛犬のよう夜を守るの

 

もしこれが、

 

狛犬のごとく夜を守れり

 

であれば、全く印象が異なっただろう。それは単に口語か文語かの違いではなくて、この歌に流れる文脈は「狛犬のように夜を守っている」ではないからだ。「狛犬のよう」という細い感覚(だからこの狛犬がかわいくみえる)の流れが「よう」で、ほとんど切れそうになりながら「夜を守るの」という感覚に繋がる。「よ」という音の繋がりも導線を繋げているし、「守るの」という言い方も、その電流の流れを細く引き継いでいる。「夜を守っている」という断定ではなく、もっとか細い感覚の回路が最後に「の」という小さな豆電球を点けるのだ。

 

そして、「無造作に置かれたダンベル」も「床」も「狛犬」も、「夜」も、脈絡のないものたちが、現実界に置かれるモノとしての脈絡ではなく、「夜を守るの」という平岡の見出した回路によって血管が繋がるときここには改めて平岡直子の「クレジット」が生じているように思う。