生沼義朗


安立スハル/馬鹿げたる考へがぐんぐん大きくなりキャベツなどが大きくなりゆくに似る

安立スハル『この梅生ずべし』(白玉書房・1964年)


 

この数日は多少和らいだとはいえ、猛烈な暑さだった。そのせいか体調を崩してしまい、この連載の更新が遅れがちになったことを(特に花山周子さんと砂子屋書房の髙橋典子さんに)お詫びする。で、半分煮えたような頭でいろんなことをとりとめもなく考えているなかに突如浮かんで来たのが今回の掲出歌だ。

 

掲出歌は安立スハルの代表歌のひとつであり、さまざまなところで言及されている有名な歌だから今さらではないのだが、いつ読んでも不思議な親近感と不安定感を覚え、かつ身につまされてしまう歌である。「馬鹿げたる考へがぐんぐん大きくなり」は、よくわかる情景であり感覚だ。何らかの状況下で思索に耽っているなか、自分でも変だと思う考えが本人の意図を離れてどんどん膨らんでいってしまうことは誰しもあるだろう。「考へがぐんぐん大きくな」るのだから、無為の時間というほど無為ではない。安立は長い間肺結核による療養を余儀なくされていたため、床に臥せっているなかでの歌という読みもあるが、この歌の場合は一首の背景をそこまで読みに組み込まなくてもよいのではというのが自分の意見である。その理由は、内省の歌によく見られる暗さや悲壮感などの湿りがないことともかかわる。「キャベツなどが大きくなりゆくに似る」も説得力のある喩で、奇妙な手触りと不安感をよく現している。

 

「ぐんぐん」は一見単純なオノマトペに見えるが、意味内容と相俟って妙な勢いとリアリティを醸し出している。「キャベツなど」も考えてみれば不思議な語の斡旋で、意味内容的には「など」をつける必要をあまり感じないし、むしろ「など」がない方が韻律はすっきり流れる。だが「など」があることで、ぐんぐん大きくなるものはキャベツに限らないという微妙なニュアンスが灯る。また韻律面でも上句の五九六の字余りと下句の字余りがむしろ釣りあい、全体にはみ出たリズムが一首の意味内容や安立独特の口語文体にさらなる味わいを付加している。

 

金にては幸福は齎されぬといふならばその金をここに差し出し給へ

 

これも有名な歌で、ユーモアの面がよくクローズアップされるが、ユーモアはあくまで副産物ではないかという気がする。この歌の奥には人間が生活を営んでゆくことの厳しさや、世の中結局何をするにも金がいるではないかという一種の怒りと諦めも横たわっている。

 

口語を駆使した軽やかな文体ゆえに飄々としている印象も受けるが決してそれだけではない深い味わいがあるし、ユーモアの側面も否定しないがユーモアが主眼に置かれているわけでもない。生活の中の嘱目から紡がれる歌には箴言的なたたずまいも感じるが、そこを安立作品の主軸に捉えることも安立の作品像を正しく捉えることにはならないのではないか。

 

何が言いたいのかというと、安立の作品はさまざまな要素が絡みあっていて、いい意味でつかみどころがない。だからこそ何度読んでも作品世界に浸れる懐の深さがある。そして読者によって受け取る魅力が異なるだろうという特徴もある。安立スハルは今でも根強いファンがいるが、どちらかというと地味な歌人にあたるだろう。もっと多くの人に読まれ論じられることで、安立作品の魅力や不思議さがより明らかにされてほしい。