平岡直子/無造作に床に置かれたダンベルが狛犬のよう夜を守るの

平岡直子「一枚板の青」(2019年・「外出」創刊号)


 

前回、この歌の「夜を守るの」についてちゃんと書けた気がしなくて、特に「の」について、あれからずっと考えていたんだけど、

 

この「の」は、終助詞の「の」になる。
広辞苑に拠れば「会話の中で、語調をやわらげつつ、聞き手を意識しての感動を示す」ということで、もともと狂言などで「其狐を釣る物をちと見たいの」とか「浮世風呂」の「ヲヤおばさん、お早かつたの」というような形で遣われていたもので、現代では「わたしはこれが好きなの」とか、「私、何とも思っていませんの」とかいうふうに遣われるわけで、どこからか女言葉になっていることも面白いと思う。これが「感動を示している」のかどうか私には今もってよくわからないんだけども、「私、今日そこ行くよ」というときの「よ」は何かしら念押ししている感じがするのに対して、「私、今日そこ行くの」という言い方は確かに「語調をやわらげつつ、聞き手を意識して」いる感じはする。つまりコミュニケーションのなかに置かれる言葉なんだけれども、でもどこかしら独り言めいてもいるというか、コミュニケーションから発生しつつそれが私の側に引き戻されているような、とても不思議な立ち位置の語であると思う。

 

それで、私にはこの「の」の不思議な立ち位置そのものが平岡直子の歌の立ち位置のような気がするのだ。「夜を守るの」は誰かに語りかけているようで誰にも語りかけていないというか。そういう「の」が選択されることで、一つの思考の在り方が生き延びさせられているような気がする。「夜を守れり」と言ってしまったときに掻き消されしまう何かを生き延びさせる。平岡には、

 

海沿いできみと花火を待ちながら生き延び方について話した

 

という歌があって、これを私は平岡の代表歌だと思っているんだけども、平岡の歌そのものは言葉によって言葉の「生き延び方」が志向されているような気もする。モノローグでもダイアローグでもない言葉や思考が置かれている場所があるとして、けれどもそれは簡単に現実や空想というどちらかのベクトルに引きずり込まれてしまうんだけども、どちらにも行かずに生き延びさせる。そういう意味で平岡の歌にある電流の回路、この「の」の立ち位置そのものは、祈りに近い気がするのだ。