生沼義朗


久々湊盈子/言葉にすれば虚辞となるゆえ風呂敷に包み提(さ)げゆく新酒一本

久々湊盈子『世界黄昏』(砂子屋書房・2017年)


 

歌集題は「せかいこうこん」と読む。2012(平成24)年から2016(平成28)年までの約5年間の作品およそ500首を収める第9歌集である。

 

久々湊の今までの歌集に較べて歌数が多い理由を「これは多分に七十歳という人生の大きな節目を挟んだ時期であったから」であり、「作品を割愛することにためらいが生じた」とあとがきで述べる。どの歌も描写力の確かさは言うまでもなく、加えて濃淡の差はあれどどの歌にも対象と対峙する緊張感があって歌の立ち姿が美しい。だが、文体や語彙が比較的平易なせいか読みやすいので、読んでいて数の多さは気にならなかった。

 

掲出歌は、歌の立ち姿の美しさと作者像の気風のよさがまず目にとまる。風呂敷に提げて持ってゆくのだから、「新酒一本」は一升瓶だ。背景ははっきり描かれないが、何かの御礼に出向いたとも謝罪に赴いたとも読める。いずれにせよ「言葉にすれば虚辞となるゆえ」に相手への敬意と作者の含羞が察せられ、わざわざ手土産を手に出向くだけの理由があることが伝わってくる。きびきびとした一首の韻律も事柄の緊張感をうかがわせる効果がある。同時に、人間の感情と言葉がしばしば一致しない難しさも背後に浮かぶ。

 

会合などで見かける久々湊はいつも和服姿の印象が強いが、そのイメージとも重なってくる。個人的にはありありと画が浮かんでくる歌だ。現代短歌では、短歌作品と作者像を結びつけることに関して特に比較的若手の実作者から異論が出ることがある。新人賞選考における作者像の類推が代表例だが、むしろ身めぐりとそこから立ち上がる思考を歌にしている場合は、作品と作者像が車の両輪となって作品の力を推し進める。掲出歌もまさにそうで、作者像と作品の意味内容がよい相乗効果を上げている。これは短歌における一定以上の修練に加え、長年の人生経験や過ごしてきた年月の厚みが関わってくる。よく「○○さんらしい歌」などとつい言ってしまうが、この「らしさ」を構築するには本来相応のバックボーンが不可欠なのである。

 

歌集の題名は

 

 

濁声(だみごえ)に大鴉は鳴けり唱和して二羽また三羽世界黄昏(こうこん)

 

 

から採られている。この歌には時事への強い関心と世界に対する危機感が率直に滲むが、歌集全体に時事にまつわる歌が多い。だが、対象を的確に捉えて鋭く切りこむ断定の魅力を見せつつ、対象を見つめるまなざしのやわらかさが保たれる。そのバランス感覚は見事である。

 

興味深いのは、題材に関わらずどの歌にも久々湊の思考や矜恃やバックボーンが滲んでいることだ。これも短兵急にできることではない。若い作者の歌と年配の作者の歌の魅力が異なるのは自明だが、年配の作者の歌の魅力はとどのつまり歳月の厚みと人間の(ここには歌人としてのも含まれる)経験や修練の集積に尽きるのかもしれないと、この年齢になって少しずつ気がつきはじめたところである。