依田しず子/頭蓋骨(しゃれこうべ)に五臓六腑を吊り下げて杖で支えるこれぞ晩年

依田しず子「ハイタッチ」(「みぎわ」2019年9月号)


 

つい数日前に届いた結社誌「みぎわ」9月号は、第35回みぎわ賞の発表号だった。未発表作品20首公募の結社賞だが、「みぎわ」会員はもちろん購読会員や山梨県内在住者なら誰でも応募できる点がめずらしい。山梨に根を張っている結社ならではという感じがする。選考は現在は山田富士郎がひとりで行っており、結社賞を他結社のメンバーが単独で選ぶのも異例といっていい。

 

今回受賞作に選ばれたのは依田しず子「ハイタッチ」20首で、掲出歌はその1首目。100㎞離れた場所に住む父親を週に1度車で訪れ、10年間に渉って介護した体験を基に、父親が98歳で亡くなる前後の状況を描いた一連である。

 

 

感情論役に立たない最晩年火を止めポータブルトイレに走る
元日を迎えやれやれ月並みな感想はそう十日ほど前
排便し嘔吐し身の裡軽くしてすとんと心臓停止する
週に一度のわが通い日に死にたまえよ父 死にてくれたり

 

掲出歌を初読は自分のことを詠んだ歌と解釈し、ずいぶん戯画化と諧謔の強い歌だと思ったのだが、一連を読み進めるうちに年老いた父親のことを詠んだものとわかり驚いた。作者である娘が100歳近い父を詠む歌にしては、肉親を客観視しながらやや皮肉な誇張による異化が特徴的で、特に結句を「これが」とせず「これぞ」としたところに客体化が効いている。一方で親への視点が冷淡に過ぎる、あるいは「頭蓋骨」に「しゃれこうべ」とルビを振る表現が露悪的にも映るので、読者の好き嫌いははっきり分かれそうな気がする。

 

他の歌を見ても、出来事をきわめて淡々と歌にしている。1首目は「火を止め」たのも「ポータブルトイレに走」ったのも作者と読んだが、ポータブルトイレで用を足していたのは父親であり、その介助にレンジの火を止めて駆けつけたということだろう。上句に「感情論役に立たない最晩年」があるため、背景が省略されちょっとわかりにくかったが、この上句が眼目であり、作者の万感がこもっている。2首目は、「やれやれ」や「そう」が一種の軽みを醸し出しつつ、介護する時間の隙間に漂う緊張の緩和を連想させる。そして一首を読み終えたときに、介護に明け暮れるさなかの時間感覚の呆気なさが実感として読者に手渡される。

 

一連の中ほどから父親の容態が急変し、依田の受賞の言葉を借りると「ぱたりと蝋燭が倒れ、自然に火が消えるように逝」く様子とその後が語られる。3首目も淡々と述べているようでいて、漢語と動詞を多用してあえて簡潔に描くことで急逝するさまを表現している。この歌も一首の展開や下句の措辞などに違和感を覚える読者もいるかもしれないとは思う。

 

とはいえ自分はこの一連にさほどの嫌悪感は抱かないし、介護の歌としては書きにくいことをよく書いたとも思う。自分も父が祖母の介護をする姿を見ていたし、折に触れて手伝ってもいたのでよくわかるが、介護はきれいごとでは済まない。一連から浮かぶのは介護するなかでともに老い、そして介護疲れも見られる作者の姿であり、父親に対する一筋縄ではゆかない感情だ。「ハイタッチ」を読んで作者を冷酷と批判する読者もいるかもしれないが、介護はそんなに単純なものではない。

 

そう考えると、4首目の歌は一連の最終首だが、ここにも親の死に目に立ち会いたい素直な願望と介護から解放された率直な安堵が複雑に入り交じる。また一連は定型を遵守している歌とかなりの破調の歌が混在しているが、不思議にあまり読みにくくはなかったのは、意味内容と言葉運びが一種のオーバードライヴを起こしているからだろう。

 

家族を詠む歌は難しい。家庭の事情はそれこそ家庭の数だけある。家庭の事情や背景をいちいちつまびらかに歌に描くわけにもいかないから、どうしても描かれる歌は事象を説明することになりやすい。すると、あとは読者がある程度共通して持つ経験値に委ねることになる。それゆえに共感を得たり、かえってベタになったりもするのだが、依田の一連は安易に共感を求めない。自身の体験を、感じたインパクトそのままに再現しようとしている。そのパワーが強烈なゆえにたしかに読者を選ぶかもしれないし、表現的にもまだまだ練れる余地のある一連であることはまったく否定しないが、介護の歌のひとつの在り方と可能性を示す一例として注目した。