平岡直子/女の子を裏返したら草原で草原がつながっていればいいのに

平岡直子「一枚板の青」(2019年・「外出」創刊号)


 

前に一度、平岡さんと何人かでトランプの神経衰弱をやったことがある。平岡さんは次々にカードを裏返していった。平岡さんの番が来るたびに声も上げずに十枚以上のカードを返していった。♠の8、♥の8、♦のクイーン、♠のクイーン、広がったカードが次々に裏返され接続されていく。この歌を読んだとき、私にはあのとき畳の上に裏返されたカードが草原になっていたような気がしたのである。それは彼女の明晰な頭脳が覚醒させた風景だった。

 

「女の子」を裏返すとそこに「草原」という空間が現れる。仰向けに寝そべっている女の子をうつ伏せにひっくり返す、というようなことではない。イメージとしてそんなふうに思い描いても一向に構わないとは思うんだけども、「裏返す」という言葉には、そのような寝そべる女の子の肉体的な「重さ」がないのだ。一枚のトランプのカードを、あるいはスカートをはらっと裏返すようにして「女の子」が裏返されたと感じる。ここでは「女の子」が、「裏返す」という取り扱われ方によって「草原」への回路に繋げられることになる。

 

そのような過程を通すことでここにあるイメージは言説として開示されることになる。この歌は手品のように「女の子」を裏返してそこに「草原」を披露してみせるているだけではないのだ。あるいは、「女の子」と「草原」というイメージはそれだけで十分詩的な価値のあるものでもあるけれど、この歌に特徴的なのは、「女の子を裏返したら」で「草原」に接続され、「草原で」で「草原がつながっていればいいのに」という願いに接続される。そういうふうに接続部が明瞭化されている点にある。「女の子を裏返したら草原なのだ(もしくは草原ではない)」というイメージを一つの「真理」のようにして一首の現場(混沌)から浮上させ読者に直感させるのが東直子の歌であるとすれば、平岡のこの歌では、イメージを取り出していく通路そのものがクリアに言語化されることで、そこにある言説に言及しているのである。
だから「つながっていればいいのに」はとてもストレートな願いであり、そしてこの願いを裏返したら草原は繋がっていないということに裏打ちされる一首に引かれた回路でもあるのだ。

 

女の子を裏返したら草原である可能性。さらにその草原がつながっている可能性というのは、女の子というもののリアルからは限りなく距離が置かれている。そして、とても野暮な意見を言えば、私自身はそんな草原がつながっていればいいとはこれっぽっちも思わない。それでも私がこの歌を愛するのは、「いればいいのに」にという願いの置き方に、現実やリアルというものに対する平岡のシビアな認識がにじむからであり、それは一首という短歌詩形に対するシャープな認識でもあるからだと思う。何かに対し冷淡でなければ書けないものがあることがここでは明確に自覚されている。平岡が目を閉じてそこに見ている「草原」は、平岡の孤独で明晰な頭脳の回路を通すことで開示されるストレートなメッセージなのだ。