花山周子


平岡直子/夕暮れの皇居をまわるランナーはだんだん小さくなる気がしない?

平岡直子「一枚板の青」(2019年・「外出」創刊号)


大変遅くなりました。金曜日の分は書ければ、土日にアップします。

 

7月31日にこの歌について書いたことが、自分がこの歌から受けている感触と何か大きくズレてしまったなあという気がしている。たとえば、私はこの歌の「皇居」に天皇制の象徴としての「皇居」というものを意識させられないと書いた。でも、本当にそうなのか。私は寧ろそれをとても意識させられたのではなかったか。あるいは、結句の「なる気がしない?」が読者の同意を求めていて、その質問に対する読者の参加によってこの歌が完成する、と私は書いてしまったけれど、本当にそうなのだろうか。この歌の表情はもっとクールな気がする。

 

この歌の要素を一つ一つ取り出して解説するのはとても難しい。たとえば、「夕暮れの皇居をまわるランナーがだんだん小さくなる」という状況を「気がしない?」と切り離して眺めることができないのだ。夕暮れに皇居をまわるランナーというものは実際に存在しているし、平岡がそれを実際に見てこの歌を作ったとしてもだ、この歌にあるのはそのような風景や光景ではない。「気がしない?」という会話体の中に置かれることで、実際の風景からは切り離された一つの思考回路が差し出されることになる。あるいは、「なる気がしたり」とか「なる気がするよ」というふうに私の発見の報告としてモノローグに詠われるときには、歌には「私」という起点と「風景(対象)」という対置された構造が生まれるけれども、ここではそのような構造自体が解消されていて、一つの思考回路のなかで「夕暮れの皇居」も「ランナー」も俯瞰的な視座に置きなおされたような感じもする。

 

平岡の歌はたとえば「解体新書」的な、骨や筋肉や臓器でできているような歌の構造がないのだと思う。そういう各部品によって構築的に形成される構造ではなくて、物事の仕組みが、別の通路から形成されている気がする。それはたとえばIPS細胞のようなもので、身体に存在しながら発見されるまでは存在しなかったというようなものから歌が形成されていると感じるのだ。

 

「皇居」という言葉の扱いについても同じことが言えるのではないか。この歌は「皇居」という文脈を構造的に批評するような従来的な立ち位置からは外されていると感じる。でも、だからといって「皇居」に対する批評性がないかというとそれは違うのだと思う。

 

では私はこの歌のどこから批評性を感じ取っているのだろうか。たとえば、「夕暮れ」を斜陽的な末期的なものとして、「ランナー」を群集や民衆のようにして意味に落とし込むことはできると思う。それが「だんだん小さくなる」というのはそれ自体暗喩として機能しているとも言えるだろう。でも、そんなふうに意味に落とし込むとき、この歌に私が感じている感触からは遠ざかってしまう。難しいんだけど、この歌全体に暗喩的な手触りは確かにあるんだけども、「夕暮れ」を「末期」に還元させるような、そういう構造に組み込まれることをこの歌はどこかで回避しているように思う。そしてそのような回避の仕方が「なる気がしない?」にはあるのではないだろうか。

 

無造作に床に置かれたダンベルが狛犬のよう夜を守るの

 

前回、この歌の「夜を守るの」について、

 

私にはこの「の」の不思議な立ち位置そのものが平岡直子の歌の立ち位置のような気がするのだ。「夜を守るの」は誰かに語りかけているようで誰にも語りかけていないというか。そういう「の」が選択されることで、一つの思考の在り方が生き延びさせられているような気がする。「夜を守れり」と言ってしまったときに掻き消されしまう何かを生き延びさせる。

 

と書いたのだけど、この歌の「なる気がしない?」「夜を守るの」と同じ立ち位置に置かれているような気がする。念のために言っておくと、この歌では「なる気がするの」としてしまうと、発見の報告という従来の構造に容易に組み込まれてしまう。この歌では「なる気がしない?」こそが「夜を守るの」「の」の立ち位置を獲得しているように思う。「なる気がしない?」は相手に投げかけているようで投げかけられていない。それは寧ろ平岡の思考を生き延びさせる手段としてここに置かれているのではないか。

 

そのような「気がしない?」によって、夕暮れの皇居をまわっているランナーがだんだん小さくなるというイメージはあくまでも平岡の思考の中にあり、それは「気がする」という気分的感覚的なものとして取り扱われてもいて、そのような態度をもって「夕暮れの皇居をまわるランナーはだんだん小さくなる」というイメージを差し出していること自体に思想性があり、それはとてもクールな批評であるのだと思う。