花山周子


平岡直子/夕暮れの皇居をまわるランナーはだんだん小さくなる気がしない?

平岡直子「一枚板の青」(2019年・「外出」創刊号)


 

7月19日7月22日の回で、『光と私語』の定型と文体について書くとき私は、塚本邦雄や堂園昌彦、永井祐といった男性歌人の歌だけを比較に出したのだけれど、それは偶然でもなければ、敢えて女性の歌をはずしたわけでもない。定型と文体の関係というものを考えようとするとき、ある種の男性の歌というのは非常に見通しがいいのだ。それは定型が「共有手形」(については1月18日の北沢郁子の回を参照)として使用されているからで。あるいは、碁や将棋のルールのような一つの掟として共有されている。だからそこでの駒の動き、技巧が見えやすい。私は壁に貼られた碁盤の横で、別室で行われているゲームの解説をすればいいのである。けれども、女性の歌はそうはいかない。女性の歌は、そこで行われている文体がどんなに斬新であったとしも、あるいは、文体というものに意識的に取り組んでいるように見えたとしても、それを「共有手形」という共通のルールの上に置くことができないところがある。けれども、じゃあ、女性の歌が他者と何も共有していないかというとそれは違う。ルールを媒介しないもっと直接的なところから詠われているということであって、そして、そうした特性は口語短歌によってより発揮されるのではないか、とここのところ考えている。

 

ゆうえんちさいせいじぎょう路線図のいちばん大きい緑は皇居

吉田恭大『光と私語』

夕暮れの皇居をまわるランナーはだんだん小さくなる気がしない?

平岡直子「一枚板の青」

 

この2首は、「皇居」を詠っている。「皇居」は日本に一つしかない、もと江戸城であるところの、郵便番号100-0001 東京都千代田区1番1号に所在する「皇居」である。約5キロメートルのお堀が巡らされ、お堀の歩道は近年都心最大のランニングコースにもなっている。この二首では、そういう立地的な建造物としての「皇居」が詠われている。

 

まず、吉田の歌では、「皇居」が「路線図」というかたちで俯瞰される。俯瞰されるとき確かにあの辺りで「いちばん大きい緑」が「皇居」ということになる。では、「ゆうえんちさいせいじぎょう」とは何なのだろうか。もちろん、そんなプロジェクトが実際に動いているわけではないだろう。2000年以降、遊園地が次々に閉園しているから、「さいせいじぎょう」という夢想はなんとなく心境としてわかるような気がするし、ここでは、あの、緑や青やオレンジの線で引かれた「路線図」というミニマルな形式に東京を置き換えることが「ゆうえんちさいせいじぎょう」ということになるのではないか。天皇制の象徴でもあるところの「皇居」という「共有手形」が、アングルの変換によってまるでミニチュアの遊園地の一角みたいなかわいいものになってしまう(平仮名書きの「ゆうえんちさいせいじぎょう」もこの印象を強くする)。「共有手形」が無効化されてしまうところにこの歌の面白さがあるのだ。そして、そういう組み換えをプラモデルをいじる男の子のように一人で黙々と完成させた作者の姿があるのである。

 

夕暮れの皇居をまわるランナーはだんだん小さくなる気がしない?

 

さて、では、この平岡の歌はどうだろうか。
私はこの歌をはじめて読んだときから、すごく不思議な気分になった。「夕暮れの皇居をまわるランナー」はまるで、『ちびくろサンボ』(タイトルからご推察できる通り、人権問題で1988年に絶版されているのでみんな知らないかな。)のトラが木のまわりをぐるぐるまわっているうちにバターになってしまうみたいに小さくなってしまう。

 

この歌に、「皇居」という「共有手形」が念頭にないとまでは言えないと思うのだが、少なくとも私はそれを意識させられない。「夕暮れの皇居をまわるランナー」はこれ自体が固有名詞化しているというか、最初から「皇居」じゃなくて「夕暮れの皇居をまわるランナー」ってものが詠われていて、それは作者の平岡の固有名詞に見える。そんなふうに見える理由のひとつは、このランナーがどの地点から眺められているかよくわからないからだ。そしてよくわからない理由は「なる気がしない?」という回り込むような「口語」にある。

 

夕暮れの皇居をまわるランナーがだんだん小さくなりてゆくなり
夕暮れの皇居をまわるランナーがだんだん小さくなる気がしたり
夕暮れの皇居をまわるランナーがだんだん小さくなってゆくんだ
夕暮れの皇居をまわるランナーはだんだん小さくなる気がするよ

夕暮れの皇居をまわるランナーはだんだん小さくなる気がしない?(原歌)

 

とりあえず、文語から口語へのグラデーションでやってみてるんだけど、
後半の3、4首は一般には「口語」に分類されると思う。でも日常会話の「口語」という意味ではこの2首はまだまだわざとらしくて、だから「文語」的でもある。そして、私の改作した4首は、どれもそんなに印象は変わらない。いずれも発見の報告であり、発見されたものの如何を抜きにすれば、短歌では非常に見慣れた形式ということができる。そして、「報告」という形式が、「私」という起点を持つ。「私からはそう見える」という。

 

そして、こうして並べてみると、原歌だけが明らかに印象が違うのだ。なぜならこの歌は発見の報告ではなくて、発見に対しての同意を求めてくる。そして、こんなふうに言われると、「はっ、はい!気がします!」と私は答えてしまうのだ(ちなみに、トークイベントでこの歌について話したときには、内山晶太さんは、答えてしまわない、と言っていて、氏は「そうかなあ」となるそうだ。おもしろいなと思う)。ともかくも、「なる気がしない?」が、こちらのほうに回り込んでくる。その回り込み方がここではまるで「夕暮れの皇居をまわるランナー」になってしまっていて、ひとつの光景としての距離を持たなくなり、「なる気がしない?」というダイアローグによって、読者との間でこの歌は完成することになる。だから同意してしまった私(花山)の場合でいえば、「なる気がしない?」のところには(なる気がします)が暗黙に重ねられて完成する。同意しなかった内山さんの場合は「なる気がしない?」に(なる気がしない)が重ねられて完成。だからね、同意如何に拘わらず、平岡の固有名詞であるところの「夕暮れの皇居をまわるランナー」ってものがこちらを巻き込む話題として共有されてしまうのだ。ちなみに、「夕暮れの皇居をまわるランナーは」までは文語的なんだよね。それがいつの間にか直接にこちらに話しかけてくる。すうーと入り込んでくる。そういう、これまでの歌とは全く違う道筋が開拓されている。