花山周子


北沢郁子
円柱状茎のふしごとに花咲けるデンドロビュームに春は来にけり

北沢郁子歌集『満月』(2018年)


 

変な歌だと思った。
「円柱状茎の節(ふし)ごとに花咲ける」という妙に物理的な描写。
この花の形状が異様に際立ち、そして、「デンドロビューム」という固有名詞。
こう詠われると、バネやらネジやら跳びだしてきそうな固有名詞である。
デンドロビュームはもちろん、胡蝶蘭とか、洋ランのことなんだけれど。

 

とにかく、「春は来にけり」というときの、春の感じがぜんぜんしない。

 

ふつう、結句に、「春は来にけり」とか、「春は来たれり」とか詠う場合、
前半で詠われる、花や木や風景は春を感じさせる象徴として、結句「春は来にけり」に渡される。「春は来にけり」はだから全てを包むような大らかさを持つ。

 

けれども、この歌では、前半の具体が、あまりにも具体的であるために、
「春は来にけり」は、本当に、「デンドロビューム」に来ていることになる。
しかも、その形状を蟻のごとくによじのぼって来たような感じすらある。
こんな春は見たことがなし。

 

「春は来にけり」という、いかにも秀歌を生み出しそうなフレーズ、秀歌のテンプレみたいなフレーズを使いながら、非常に個性的な歌になっている。

 

渡り来し雑草にして姿優しく伝播すみやか長実ひなげし

 

この歌はどうだろうか。
「長実ひなげし」というのは、淡いオレンジ色をした、かよわいポピーのような花である。
私が、学生の頃(20年くらい前か)にその辺の雑草として急に増えたような印象があるが、きれいな花で、もとは鑑賞用に入って来たものが、外来種の強さで蔓延(はびこ)ったものであるだろう。
その可憐な姿や名前から、人好きがし、短歌にもよく詠われる。

 

それをこの歌ではまず「渡り来し雑草にして」とはじめる。
それから、今度は「姿優しく」、そして「伝播すみやか」そして「長実ひなげし」。

 

確かに、そうなのだけど。と思う。
そうなんだけど、なんでこんなに身も蓋もなくなるのか。
他にも何首か紹介したい。

 

・てのひらに太陽と言へば開き見る掌(て)の条(すぢ)繁(しじ)に麻の葉模様
・眺めやる雪の広場に一夜かけ吹き過ぎし風の描きし紋様
・鉛筆の芯折るるほど尖らせて文字書くまでにわれは癒えたり
・野バラ咲けば野バラ野バラと歌ひ出づるこの国に生れし幸せを思ふ

 

共感させないのである。
思っていることが個性的であるというより、思っていること自体はわりあい共感可能なことであったとしても、それを、頑なに共有しようとしないところが、ある。
「これは私が思ったことなのよ」「これは、私の感覚なのよ」と言って、こちらに手渡さない。
うたの韻律で感情をととのえたり、ふくらませたりして、つまり共有するための普遍化の手続きをしない。

 

だから、私は読者として、北沢郁子の歌に全く共感しないで読んでゆくことになる。
でも、だから北沢郁子の歌集というのは、孤、を守っていて、そこに、媚のない、さびしさがある。寧ろ、さびしさの境地のようなものが、こうした頑なさを生んでいるのか。

 

ただ、興味深いことは、北沢郁子の歌に言及したり評論を書いたりするのはほぼ女性だということだ。これまでのクオリアでも、石川美南(2012年8月27日)前田康子(2014年1月8日)今井恵子(2017年11月30日)平岡直子(2018年7月4日)ら、女性ばかりが取り上げていた。
女性には、こうした北沢郁子の姿勢そのものに共感できるところがあるのではないか。
共感までいかなくとも、抵抗は覚えない。のではないか。

 

私は、北沢郁子の歌というのはある意味で女性の歌の極北なのではないかという気がしているのだ。
北沢郁子に限らず「これは私が思ったこと」、「私の感覚」というものを優先するというのは、女性にはあるように思う。それは、社会的な共有手形=コンセプト(個々のコンセプトとはまた別)に根本的には興味がないことでもある。ここで平岡直子の、以下の歌についての指摘は非常に示唆に富むような気がする。

 

・花束を買ふよろこびに引きかえて渡す紙幣はわづかに二枚 『夢違』

そもそもこの歌は金額はあまり問題にしていないのだ。大切なのは枚数。花びらを数えるときの数え方でお金を手放すこと。つまり「わづか」とは二枚の紙幣のことを「花束の価値に対して安い」といっているわけでも「このよころこびに見合わないほど安い」といっているわけでもなく、「花びらに比べて少ない」といっているのだと思う。
平岡直子「日々のクオリア:2018年7月4日」

 

確かにこの歌では、「紙幣」という共有手形を歌に持ち込みながら、「金額」という価値に対しては無頓着な気がする。童話のきつねが葉っぱ二枚を差し出すような、ここには、北沢郁子個人の感覚的な「価値」が何の手続きも置かずに置かれている。

 

「社会的に定められた価値」よりも「個の価値」を優先する。もちろん、男性にもそうした人はいるし、女性でもそうでない人はいるから、一概には言えないことで、また個人によってもグラデーションはある。ただ、大きくくくるとき、こうした傾向が女性にはあるような気がする。そしてこうした傾向が、女性短歌を短歌史的に語られにくく、位置づけしにくいものにもしている。というより極端に言えば、「私が思ったこと」を先立てることは、そうした相対化の目を拒むことでも本当はあるのだ。

 

 

そのような視点に立つときはじめて、女性ひとりひとり(男性でもこういうタイプの歌人)の歌を相対化して論じるような、あるいは相対化せずに論じるような、道筋が浮かんでくるのではないか。そして、平岡直子の昨年一年間のクオリアの文章は、その可能性を大きく切り開いていたと思う。
女性の表現意識、動機を考える上でも北沢郁子の歌というものは重要な気がしている。