吉田恭大/ここはきっと世紀末でもあいている牛丼屋 夜、度々通う

吉田恭大歌集『光と私語』(2019年・いぬのせなか座)
※「吉」の字は土+口です。


 

『光と私語』の2章の話に入る前に、もう少し、1章の歌にある隙間について書いておきたい。『光と私語』の1章の歌というのはぱっと見、破調がほとんどない。
けれども、よく見ると、定型には微細な亀裂が生じはじめていると私は思っている。

 

ここはきっと世紀末でもあいている牛丼屋 夜、度々通う

池袋にも寄席がある。二人して暇なので落語家を見に行く

 

たとえばこれらの初句七音なんかは現代短歌ではかなり多様されていて私から見ると定型の範囲内なのだが、それよりも、定型からほんの少し外れはじめていると感じさせるのは、「牛丼屋 夜、度々通う」「二人して暇なので落語家を見に行く」のあたりである。音数は合っているし、「句跨り」や「句割れ」も珍しいものではないのだが、

 

しかもなほ雨、ひとらみな十字架をうつしづかなる釘音きけり 塚本邦雄

振り下ろすべき暴力を折れ曲がる水の速さに習う 堂園昌彦

 

たとえばこれらの歌で「句割れ」や「句跨り」がくきやかに見えるのは、塚本や堂園の構築する文体と定型がせめぎ合うことでそこに作品の意志としての強度が生まれているからで、「句割れ」や「句跨り」がここでは、もともとの定型の連なりに対しさらに鎹(かすがい)を打ち込んで強固にするような働きを持つ。あるいはもちろん接続を一気に切り離すようなケースもあるけど、ともかくも「句割れ」や「句跨り」は基本的には「短歌の定型」を土台にして生きる技法である。

 

あるいは、この歌はどうか。

 

朝からずっと夜だったような一日のおわりにテレビでみる隅田川 永井祐

 

7・8・5・8・7というリズムを刻んでいて、「朝からずっと」の初句七音で散文的な書き方を定型にねじ込むところからはじまる。2音の余りが散文性を装うのだ。さらに、2句、4句で一音ずつはみ出すことで、定型の5句の大きな割れ目を漆喰で塗りつぶすようにして、人の思考が、あるいは、「朝からずっと夜だったような一日」という時間の質感が定型の上に押し広げられていく。だから一見軟弱そうに見えるこの歌ではいわばゴムのような強度が定型に齎されている。

 

あるいは、同じ永井祐の歌でも、

 

ローソンの前に女の子がすわる 女の子が手に持っているもの

どう たのしい OLは 伊藤園の自販機にスパイラル状の夜

 

こうした歌は、一字空けをともなっていて、定型に亀裂が入っていると言えるかもしれないが、私は、ここにも寧ろ、定型の強度を感じさせられる。
一首目では、「ローソンの女の子がすわる」「女の子が手に持っているもの」は微妙に話がずれているのだが、この空白にたとえば「その」を入れる。そういうふうに欠落部分を補わせることが鎹(かすがい)として寧ろ歌を連結するようなところがある。「どう たのしい OLは」はそれを発している心の呼吸は同じであり、またそれが上句であることで、いくら散らばったとしても下句の「伊藤園の自販機にスパイラル状の夜」が吸引していくような、一つの道筋が立っている。永井祐というサーファーが定型という波を本当にきれいに乗りこなしているのだ。

 

ここはきっと世紀末でもあいている牛丼屋 夜、度々通う

池袋にも寄席がある。二人して暇なので落語家を見に行く

 

それで、この二首だけれど、この二首はまず、構造が似ている。「ここはきっと世紀末でもあいている牛丼屋」「池袋にも寄席がある」という場所についてのセンテンスが前半に置かれ、後半で、「夜、度々通う」「二人して暇なので落語家を見に行く」とそこに行くことが描かれる。文脈としては極めて真っ当である。そして、真っ当であるだけに、ここにほんの少しだけ感じられるずれが、気になる。淡々とした叙述でありながら、どこかしら文体には統一感がないのだ。

 

それで、この歌を散文としてごくごく自然に読めるようにするにはどうしたらいいかずっと考えていたんだけど、そうするには意外なほどいじらなくてはいけないことに気づかされた。「ここはきっと世紀末でもあいている牛丼屋」「夜、度々通う」も、「池袋にも寄席がある。」「二人して暇なので落語家を見に行く」も、びみょ~に文体や内容の位相が異なっていて、自然に繋がるようにするには、話し言葉に変換して会話の流れみたいなものを作り出さなければいけなくなるのだ。「二人して」なんかは、まるでジャズみたいに初句からの流れに他のフレーズが挿入された感じがする。

 

で、ともかくも、そういう一首としての文体が微妙に統一感がない、微妙に外されていくことで、「牛丼屋 夜、度々通う」「二人して暇なので落語家を見に行く」も背後に定型がないすかすかした感じがして、今にも散らばりそうな言葉に見える。というよりも、もともと散らばっていた、例えばネット上の言葉を、文意が繋がるように組み立てたような感じがする。だから、ほんの少しの亀裂のように見えながら、ここには埋められない隙間が生じてしまっているような気がするのだ。

 

あるいは、

 

「白いのがひかり、明るいのがさむさ、寒いからもう電車で行くね」

 

これなんかも、一つ一つの規定が重ねられることが、重層性を増すというより、どこかすかすかとして今にも散らばりそうな気がする。「白いのがひかり」であることと「明るいのがさむさ」であることと、「寒いからもう電車で行く」ということが、均質でありながら、位相がずらされていて、何かがばらばらなのだ。
吉田の歌には定型を背後に置くことで生まれるはずの連結がない。
それは、紙のようにはらはらと、音数を刻んでいるのだ。

 

ただ、ここで付け加えておきたいのは、今日あげた三首も含め『光と私語』の特に1章、3章の歌というのは他の人の歌集の中に置かれていてもおかしくないような歌が多い。だから一首単独で見たとき、今日私が書いたような印象を受けるのかどうかは正直自信がないのだ。歌集の中でこれらの歌を見るときに、私には定型が少しずつ外されていくような、すかすかとした隙間が見えてくるのである。