斎藤茂吉/どんよりと空は曇りて居(を)りたれば二たび空を見ざりけるかも

斎藤茂吉『赤光』・大正2年(1913年)


 

『赤光』に見られる茂吉の助詞・助動詞の置き方というのは歌にスリルを生む。歌全体に対してではなくその場の絶対性にのみ使用されることの臨場感があるのである。

 

どんよりと空は曇りて居(を)りたれば二たび空を見ざりけるかも 

 

この歌においても「空は」という言い方が特徴的である。この「空は」はこの時点で一旦全力で詠嘆されている。そして、「居りたれば」はふつうであれば、「私がふたたび空を見なかったのは空が曇っていたからだ」というふうに前後の文脈を繋げるはずであるけれど、私には「居りたれば」と「二たび空を~」の間には深い断絶があるように見える。一首という連続の中にあって、「空は」「たれば」がばくっと深い口を開いてしまっているように見える。

 

どんよりと曇った空を見たときの、「ああ空がどんよりと曇っているから」というような心の動きは、何かに接続されるのではなくて、接続されないことの大いなる欠落がここにはある。そして茂吉はふたたび空を見なかったのである。そのような二つの状態の隙間に生じた断絶が「たれば」によって強烈に印象付けられることになる。この口の開き方こそが茂吉の歌の実存的なスリルを生んでいるのではないか。

 

ちなみに、この歌は大正二年作であり、

 

どんよりと
くもれる空を見てゐしに
人を殺したくなりにけるかな 石川啄木/『一握の砂』(明治43年)

 

この歌を意識していると思われる。
けれどもこうして並べるとき二人の歌の志向の違いは明らかだ。啄木の歌では、どんよりとした空を眺めているときにふと兆した「人を殺したくなりにけるかな」という心理が詠われる。そういう「なにがなし」的な曇り空から心理への機微が捉えられているのだ。

 

一方、茂吉の歌では、「どんよりと空は曇りて居り」という状態と、「二たたび空を見ざりけるかも」という状態のみが詠われる。茂吉の心理を反映しているのは実に「(空)は」「たれば」と「ざりけるかも」という助詞、助動詞のみである。茂吉はそこにある意識や心理を取り出すのではなく、この詠嘆によって野放図に無意識の沃野を垣間見せる。

 

実のところ茂吉はこの歌で何一つ打ち明けてはいない。それは打ち明けていないのではなくて、最初からそのような打ち明けるべきものが欠落しているのである。実存的な感受のなかにあって、曇っている空と、その空をふたたび見なかったこと、そこに差し挟まれる「(空)は」と「たれば」と「ざりけるかも」というその場その場の詠嘆がこの歌ではただ実存的に存在してしまっている。そのために表面的には一首として接続されていながら、上句と下句の間には深い断絶が内蔵されることになるのだ。