生沼 義朗


花山多佳子/それは私が夜中に見てゐたドラマだと娘が言ひぬ夢を語れば

花山多佳子『鳥影』(角川書店・2019年)


 

きわめて個人的な話だが、日々のクオリアの執筆に困ったときに頼りにしているのが花山多佳子と小池光の歌である。理由は、一首一首の歌が物語を含んでいて何読にも耐え得る強度を持っているからだ。取り上げたい歌が多かったため今まで機会がなかったが、掲載回数が残り4分の1を切ったこともあり、いよいよ(自分にとっての)真打ち登場である。

 

『鳥影』は花山の第11歌集。前の歌集『晴れ・風あり』(短歌研究社・2016年)に入らなかった2010(平成22)年および2011(平成23)年の歌を含むが、概ね2012(平成24)年から2015(平成27)年までの歌468首を収載している。

 

歌にならない素材はない、とは言いつつも実際は歌に向く題材かの向き不向きは間違いなくあるし、多くの人がかつて詠んできた題材を、今までに多々見られた方向性や手法で処理すれば、たちまち類想歌と判断されてしまう。日常のありふれた情景を描いたとしても切り口か表現に個性が必要となるし、さらには歌に詠む事柄に本当に作者の心が動いているかも重要な評価のポイントになってくる。どの歌もその勘所をクリアしていて、歌集の安定感はいうまでもない。

 

掲出歌は、歌集最初の一連の歌。昨夜見た夢の中身を娘に語ったときにそれは私が夜中に見ていたドラマだと返されたという、書かれた通りの意味内容だ。状況を想像するに、作者が寝ているおそらく隣の部屋で娘が夜中までドラマを見ていたのだろう。夢の中の出来事と思っていたら現実と混線していたというのは、ありふれた事柄とまでは言わないが誰の身にも一度はありそうなことだ。平易な文体に事柄のおかしみや現実が揺さぶられるような不安感、夢の正体がわかったことへのかすかな安堵が入り交じっている。

 

しかしそれだけでは歌に奇妙なリアリティと味わいが漂う充分な説明には足りない。初句から四句と結句が倒置になっている効果もさることながら、花山の歌は人間、特に身近な存在をいきいきと描いている点を押さえておく必要がある。掲出歌は「娘」の淡々とした口調が一首の空気の醸成に大きく資しているのは疑いなく、それは花山の他の歌にも共通する。重要なのはその人物像が一貫していてブレがないことだ。断っておくが、この「娘」のキャラクターを実際に知っているかはまったく関係ない(実際の花山の娘さんと結びつけて歌を観賞してしまう人が出てくるところが短歌の厄介な点である)。作品から感受される「娘」の人物像が、読者のなかできちんと像を結ぶか否かが肝要なのである。

 

少し話は変わるが、10年から20年くらい前だったか、若い作者の相聞歌において「相手の顔が見えてこない」といった批判がしばしばなされたことがあった。指摘自体は妥当なものだと思う。相聞歌という性格上、どうしても作者の感情に表現の比重が寄りがちだからだ。相手および自分という人物がもっと描けていれば、この種の批判は起こらない。とはいえ、一首の短歌で特に他者の人物像を表現するのは簡単ではない。批判自体に反論するものではないが、若いあるいは新人の作者に求めるのは少々厳しい気もする。

 

人物が動くことで、事柄が生まれる。作者の感情に表現の比重が傾くと、作品のなかで事柄が人間を動かしてしまう現象が往々にして起きる。そうではない。冒頭で花山多佳子や小池光の歌には一首一首に物語が含まれていると書いたが、人物を歌のなかできちんと描けばあとは自然に事柄が生じてくる。そのことを知悉しているからこその人物描写であり、人物造形なのである。