花山 周子


斉藤斎藤/天然の冷蔵庫だなを聞きたくて父と市バスにゆられとります

斉藤斎藤『渡辺のわたし』(2004年・booknest/新装版:2016年・港の人)


 

本当は八月にあげる予定でいた歌なのだが、十月になってしまった。
私は暑い日のバスに乗るたびにこの歌を思い出すし、本当を言えば年中、ふとしたときにこの歌が出てくる。「天然の冷蔵庫だな」は私にとっても一種特別なものになっているのだ。

 

当然ながら「天然の冷蔵庫」は大いなる矛盾を孕んでいる。冷房の効いたバスは、天然ではなくて人口ですよ、というつっこみがまずは誰しもの心をくすぐるだろう。「天然の冷蔵庫だな」にはそのようなある程度年配の親父感がとてもあるのだ。〈わたし〉は、何度もそれを横で聞いてきた。いつも、親父、それは違うよ、と心でつっこみながら、けれども敢えて訂正しないのは、幼子の言葉の間違いを親が正さないのと同じで、その間違いをこよなく愛してしまっているからだ。あるいは過去にはつっこんだこともあったかもしれないけれど、親父は一向頓着しないままともかくも今に至るまで「天然の冷蔵庫だな」は無事に温存されていて、それが今では〈わたし〉の「聞きたくて」という郷愁を誘うのである。「市バス」という乗り物のレトロさも大事だろう。

 

狭いバスの中で、けれども、親父が「天然の冷蔵庫だな」とつぶやくくらいにはバスは空いていて、そういう小さな乗り物に大の親子二人が並んで座っている。「ゆられとります」にはじわじわとした照れくさいような気持が動いていて、親父の横でじっと座って〈わたし〉はバスに運ばれているのである。