梅本武義/闘いはここからという労働歌専務となれど口ずさみおり

梅本武義『仮眠室の鳩』(ながらみ書房・2016年)


 

梅本武義は、1943(昭和18)年広島県生まれ。1962(昭和37)年に地元の路線バス会社に入社して役員まで務め、歌集刊行時は顧問として勤務しているという。1993(平成5)年に「波動」に入会、1998(平成10)年には「地中海」にも入会している。『仮眠室の鳩』は第1歌集で、389首が収められている。

 

前回述べた歌集に対する時間の流れの反映の観点でいえば、歌集は7章立てで「Ⅰ 平成五年―八年」などのように年代の区切りが付されている点などから見ても、この歌集もまた作者の過ごしてきた時間が明確に意識され、如実に一冊に重ねられていることは明らかだ。歌集の多くが仕事の歌で、職業人としての感慨や記録性が一冊の時間に重なってくる。歌集題となった『仮眠室の鳩』は、「Ⅲ 平成十二―十四年」に入っている、

 

 

ぐずーぐずと鳴く鳩を聞く仮眠室使い捨ての身二つが並ぶ

 

 

の一首から採られている。この頃梅本は50歳代後半で、経営再建による合理化に伴う労働争議の際に会社側の担当者として折衝にあたっていた。「仮眠室」がバス会社独特の職場環境を表していて、おそらく深夜に仮眠を取り、早朝に鳩の低い鳴き声で目が覚める。「ぐずーぐずと鳴く」ところから察するに土鳩ではないか。このオノマトペも独自の味わいがあり、耳のよさを感じる。いずれにせよ心地よい寝覚めではない。事実をありのままに描いているが、疲労と不安感を表現する道具立てとしてこの鳩は効果的である。

 

「使い捨ての身」という直截な表現にも宮仕えの辛さと近い将来への不安が率直に滲む。この不安は、労働争議の行方はもちろん、争議が決着すれば自分もいずれはリストラされるのではないかという不安だけでなく、身をすり減らして働く自分に対する本能的な生命上の危機感も含まれている。結句の「二つが並ぶ」はややわかりにくかったが、作者以外にももうひとり仮眠室で眠っていると読んだ。相手が労使どちらの立場までははっきりわからないが、どちらにしても「使い捨ての身」であり、それでも糧を得て生きていかなくてはならないという諦念にも似た、働く者にとって切り離せない感情が漂っている。

 

掲出歌は「Ⅴ 平成十八―二十年」のなかの一首。「闘いはここから」は、代表的な労働歌である「がんばろう」のサビの部分。1960(昭和35)年に三井三池争議の渦中に作曲されたという。労働運動や学生運動が活発だった時期に、デモや労働組合の大会などでよく唄われた曲である。梅本自身も若い頃からよく唄ったのではないか。専務として今は労使の使の側に立っているが、もともとは労の側だった。習い性というか、気合いを入れなければいけないときなどに思わず「がんばろう」を口ずさむ。そこには現在は立場が違うが元は同じ立場であるとか、自分自身も所詮は雇われの身との思いも滲む。

 

前回、歌集における時間の厚みについて述べた。「日々のクオリア」は新しい記事が掲載されるたびに砂子屋書房の高橋さんがツイッターで告知して下さるのだが、前回の告知の際には「多くの歌集が編年体で編まれているのは、それがその人の歌をよりよく読者に提供できるから」と述べている。まったくその通りで、作者の過ごした時間の厚みを表現し、体験や思念や叙情を読者にダイレクトに手渡す意味では、きわめて理にかなった編集方法でもある。

 

『仮眠室の鳩』も短歌や歌集が持っている様々な機能や利点をうまく活用している印象がある。活用というとネガティブな印象を抱くかもしれないが、ジャンルが持つ特性をアンチテーゼにしてあらたな可能性を切り開くのも作家性だが、ジャンルの特性をテーゼにするのも作家性である。短歌というジャンルの特性にしたがったとき、作者特有の作品世界が得られることも多い。短歌の詩形が元来持つ力であり、近代短歌の際に構築された一種の発明であり、また作者のパーソナルな要素による個性や味わいの差異でもある。どの歌集もそうだが、短歌という表現の器を手に入れてものされた一冊の歌集を興味深く読んでいる。『仮眠室の鳩』もそのなかで印象に残った一冊だった。