花山 周子


奥村晃作/副都心線で横浜直通の地下鉄赤塚駅を利用す

奥村晃作第十七歌集『八十一の春』(2019年・文芸社)


 

短歌はもともと垂直な詩形ではあるのだが、最近の奥村晃作の歌は、その垂直性が際立っている。それはもはやただごと歌ではなく、ただごと歌を突き詰めた先の造形のように見える瞬間がある。

 

副都心線で横浜直通の地下鉄赤塚駅を利用す

 

一見すると固有名詞を並べて説明しただけの歌にも見えるが、奇妙なほどにその垂直性が際立つのは「直通の」が挿入されているためだろうか。そしてこの「直通の」にこそ、奥村の心情があるのである。

 

副都心線」という新しい路線が、奥村の最寄り駅である「赤塚駅」と「横浜」を「直通」にした。その驚きや感動が、固有名詞の羅列の中を垂直に貫く。

 

よく見れば、変な歌なのである。「副都心線で横浜直通の地下鉄赤塚駅」というのは、どこか順序がおかしいというか、説明としては成り立っていないところがある。けれども、まっすぐに「利用す」に直通してしまうのだ。

 

直(す)ぐ立てるスカイツリーが観音の立像(りゅうぞう)のごとわが眼には見ゆ

 

スカイツリー」という、王道モチーフが、王道まっしぐらに詠われる。
その垂直さがここでも「わが眼には見ゆ」まで貫かれることで、まるで「スカイツリー」と「わが眼」が垂直に繋がってしまったような、奇妙な感覚が生まれる。

 

雪道に滑って転び尻をつき濡れて冷たい駅までの道

 

今日紹介しているこれらの歌は全て『八十一の春』に収録されており、つまり81歳前後の歌ということになる。80代で雪道で滑って転ぶというのは大変なことだと思うのだが、この歌では、全てが「駅までの道」に垂直に繋がってしまう。自分が滑って転んで、尻をついて濡れて冷たいという出来事が、「」の中に回収されてしまうのだ。

 

私の表現であると言われるが〈現代短歌〉をしかく思わぬ

 

このなんとも物足りない感じはなんであろうか。言いさしでも、ただごとでも、つぶやきでもない、「しかく思わぬ」、つまり、そうは思わない、とだけ言っている。このあまりにも、あっさりした物言いが、なんだか新鮮なのだ。

 

鳥たちの頭小さい 鳩見ても体に比べ頭小さい

大きな雲大きな雲と言うけれど曇天を大きな雲とは言わぬ

咲き切ったシンビジュームはいつまでもいつまでもそのままに咲いてる

 

これらの歌に発見は明らかにあるのだけれど、それは現実のなかで発見されたときの心動きを見せるというより、もはや歌の文体の簡素さによって、詩的に奇妙なものが創出されてしまっているような印象がある。

 

八十一の春』にはどこか野球監督のようなベンチに座って、モノ申すような歌が並ぶ一方で、ぽかんと「われ」という穴が開いたてしまったような、歌の垂直性のみが現前する歌がところどころに置かれている。

 

奥村短歌については生沼さんの優れた評が2月19日と、21日にクオリアに掲載されていますので、少し違う角度から書きました。