嵯峨直樹/五指の間に五指をうずめる 薄らかな光ちらばる夜の市街地

嵯峨直樹第三歌集『みずからの火』(2018年・角川書店)


 

琥珀色の水滴の膜ふるわせて夜の市バスの窓のきらめき

夕ぐれの緋(あか)い粒子に浸されたバスの車内の影は盛りたつ

 

こうしたバスの歌も印象的だ。夜のバスに乗っているとヘッドライトが水滴を「琥珀色」に輝かせていることがあって、この歌ではその無数の小さな水滴が膜をふるわせて「窓のきらめき」を成している。2首目では、夕ぐれの薄暗いバスの中を「緋い粒子」が窓や天井を通過するようにして浸している。夕焼け色や赤や茜ではなく「緋い粒子」と言われることで色面ではない色素の集合性を感じさせるのだ。そのような色素の捉え方が、「影は盛りたつ」にも表れていて、つまりここでの影は、物体や立体が落とす「」ではなくて、人間や椅子というような車内のモノが「」という色素に分解されている。

 

このような世界の捉え方、感受の仕方が限りなく「わたし」というものを透明にもしていて、結果として歌のフォルムというものが霧散しているのだ。まるで、感性そのものが歌を成しているような、ちょっと違うな。ある意味で科学的な視点が詩的に形成されているというか、それは私には宮沢賢治を思い出させる。

 

わたくしといふ現象は/仮定された有機交流電燈の/ひとつの青い照明です」という、『春と修羅』の有名な序があるけれど、こういう賢治の思想体系というものは近代的自我の発見/確立というものとは全く違う指向を持っていて、それが詩や童話の世界にもなっているのだが、

 

ちゞれ雲
銀のすすきの穂はふるひ
呆けしごとき
雲かげの丘

阿片光
さびしくこむるたそがれの
胸にゆらぎぬ
麻むらの青  /宮沢賢治

 

こうした短歌作品においては、主語の統一を欠いていることが言葉をばらけさせ、歌のフォルムを形成させないのである。そして、だからこそ賢治の歌というのは短歌における「私性」がいかに画一的なものであるかの証左にもなっているのではないだろうか。実のところ短歌に出現させることのできる「わたし」というものは本当に限られていて、それは暗黙のうちに短歌を成立させるための「わたし」ともなってしまっているのだ。それでも、現代に到るまでには(近代においても)、様々な「わたし」とうものが姿を見せてもいて、そういうものによく目を凝らしていくのも批評の大事な仕事ではないかと思っている。そして、嵯峨直樹のこうした歌では、歌のフォルムは霧散しつつ、けれどもここでは新たな存在性のようなものが歌の姿を統べているようにも思われるのだ。

 

五指の間に五指をうずめる 薄らかな光ちらばる夜の市街地

 

これも嵯峨直樹の『みずからの火』の歌である。
五指の間に五指をうずめる」はあるいは性愛の場面での手と手であるかもしれないし、たぶんこの言い方だとそっちのほうが正しそうなんだけど、個人的に読みたい読みを展開すれば、祈りのようにして自分の両手の指を組んでいる。「うずめる」にはその心の統一の深さのようなものが感じられ、そこから「薄らかな光ちらばる」という景が広げられる。そして「夜の市街地」へと歌は降りて行くのだ。ここでも円錐型の世界の見え方があって、そのような円錐型の景の上で、手が組まれている。