米川千嘉子第九歌集『牡丹の伯母(ぼうたんのをば)』(2018年・砂子屋書房)
災害のほうは急速に常態化しつつあるのに、人間の側はあらゆる面でまったく追いつけていないのが現状であるし、それでも災害後の復旧を社会やボランティアのような個人がなんとか心を砕いて努力しているのだとして、その努力がどこまで続けられるのか怖くなる。寧ろ無関心や無気力に加え、開き直ったような自己責任論が一般には広がりつつあるのではないか。
こうしたことは短歌表現においてもいえるのだと思う。私は、短歌表現が災害や大きな社会的出来事に必ず向き合わなければいけないとは思っていない。けれども、ここまで災害が常態化するなかで、それ以外にも全てが目に見えてかなりやばい状態にあるなかで、そうした外部の変動が様々に自身に影響を及ぼしつつあるのは確かで、無関心になることも自己責任論を感情的な怒りを伴って唱えることも、その心理を生み出しているものこそが外的な社会不安でもあるのだ。そして、そんなふうに自身を侵食しつつある何かに短歌表現はほとんど追いつけてはいないような気がする。けれども、米川千嘉子の歌というのは、そのような追いつけない場所にあることが文体によって引き受けられていることの重い真実があるように感じる。
ああ何の枯れ野と思へば刈られざるまま川土に涸らびたる稲
これは、前回紹介した「防災無線」一連の歌である。米川千嘉子の強い想いや批評性をともなうごつごつとした文体がここではとても低い声によって詠われている気がする。全ての言葉が敗北させられた心から出てきているようで、私はこの歌がとてもかなしかった。そしてだからこそここには今の表現の真実があるように思った。
収穫されし米は水浸きて芽を吹きて袋のままに腐りをりたり
この歌でも言葉は力ない。けれども、その力のなさが、水浸きて、芽を吹きて、袋のままに、腐りをりたり、という描写を畳みかけているところに、敗北した地平から書き起こされている何かがある気がする。水浸つきて、芽を吹きて、の一つ一つに感情がともなうというか。そのために、収穫された米が入っている袋は水浸しになり、そこから芽を吹き、その袋が袋のまま腐っているという、この順序を追うことのうちに堰き止められている思いが重い底流をなすのだ。
泥海となりし刈田に鷺の来て蝶のごと群れなにか漁れる
この歌も、歌の抑揚が似ている。鷺が蝶のように見えるのは、泥海の広さを物語っていて、しかしこの歌はその広さを感じさせない。身を小さくかがめるようにして、やっとの思いでそこにあるものを詠いとどめているという感じが歌の景そのものも小さくしているようなのだ。第四、五句の「蝶のごと群れ/なにか漁れる」には若干の句割れ、句跨り感がある。それは意味内容が割れているというのではなくて韻律的にである。そして句跨りや句割れ的要素は歌の抑揚を強くするものであるけれど、ここでは寧ろ力のなさが短歌定型に割り込むようにして侵食している感じがする。そして、それでも、「水浸きて芽を吹きて袋のままに腐りをりたり」も「鷺の来て蝶のごと群れなにか漁れる」にも、本当に低く落ち込んだ地平から、何かを堰き止めようとする意志を感じる。それが短歌定型の持つ七・七の力を寧ろ押し込め底流させている。ここにあるのは、米川の苦しい心のうちが生み出した文体であるのだと思う。
涸らびたる稲を草刈り機で刈れば土煙立ち筑波くもりぬ
この一連には「われ」というような主語が立てられていないと感じる。もちろん、「われ」はいるのだけれど、そういうことではなくて、短歌はどんな大きな出来事に対しても「われ」という主語によってそれと対峙することで歌に説得力を齎してきたのであるけれど、この一連ではそのような意味での対峙する「われ」が立てられていないのだ。何よりも、言葉が力なく感じられるのはこのためで、この歌では殊に「草刈り機で刈れば」の主語はふつうの短歌であれば「われ」となるであろうけれど、ここでは「われ」でない、少なくとも「われ」と読む必要はないように思われる。それは主語を手放したということではなくて、短歌的な主語が手放されているのだ。呆然と叙述するときに見えてくる人間と風景とが成しているものが立ち上がってくる。
この一連には嘘のない主語が置かれていると思う。こうした米川の歌には31音で何かを言ってのける爽快感や、レトリックが齎すカタルシスといった短歌的悦びは皆無である。そういうものを封印したところから書き起こされている文体であるからだ。だから、ほぼ定型であるにも拘わらず、短歌定型としての抑揚も抑え込まれている。
はるばると泥土に流されゆくものか小さき鉄の黒文鎮も
この歌の一首前には〈ゐのしし村で買ひし鉄製ゐのししの黒文鎮を本に載せて書く〉とあり、そしてこの歌で「はるばると泥土に流されゆくものか」と詠い出されるのだ。文鎮という重石がその流れのなかではただはるばると流されてゆくこと。ふだん安定してそこにある机の上の全てのものが、そのなかで一番重いであろう文鎮が大きなものに流される世界が地続きにある。それは短歌定型における「わたし」という重石とも似ているのではないか。米川千嘉子の文体はそういう地続きにあるだろう世界に最もその身を近づけながらその場所で、個人以外の何者でもない「わたし」が何かを堰き止めようとしている文体であり、それは今に対する文体として私が最も信頼する文体でもあるのだ。