米川千嘉子/ひとは誰かに出会はぬままに生きてゐる誰かに出会つたよりあかあかと

米川千嘉子第九歌集『牡丹の伯母(ぼうたんのをば)』(2018年・砂子屋書房)


 

私は前回、米川千嘉子の歌は、机の上の文鎮が流されていくような世界が地続きにあることを最も身近に引き寄せている文体なのだ、というようなことを書いたけれど、それはいま在るもの、場所のなかに「反転」してしまった世界を見つめることでもあるのではないだろうか。日常というものが無限の反復を繰り返しているようであったとして、そのことをつきつめた思索のなかに反転してしまった世界が手繰り寄せられているような。というよりも思索そのものによって手繰り寄せている。つまり、思索こそが、米川千嘉子の歌の主体性となってこの「反転」を地続きの場所に引き寄せているのであり、『牡丹の伯母』という歌集において最も重要なモチーフになっているようにさえ思われるのである。

 

ひとは誰かに出会はぬままに生きてゐる誰かに出会つたよりあかあかと

 

ふだん、人は出会った人のことばかり思う。出会って、そしてもう会えなくなった人のことばかり思う。もちろんまだ見ぬ誰かを夢想することはあるけれどここにあるのはそのようなロマンティシズムではないように感じる。それは、出会った人々で形成されている自分の世界に対して「あかあかと」と詠われているのである。ここには自身のいる世界を土台から覆すような暗い確信が満ちているように思われるのだ。

 

叶はざるゆゑに祈りし時代(よ)のありて塼(せん)のほとけの祈り滅びず 

ひとつづつ祈り叶へてそののちに滅ぶ不思議を誰か記さむ

 

こうした「祈り」についての歌も印象的である。
塼のほとけ」というのは塼仏(せんぶつ)のことで、レリーフ状の仏像のことである。最も素朴といっていいような簡素な仏像であり、「叶はざるゆゑに祈りし時代」というところにはそのような簡素な仏像に祈りを捧げた古(いにしえ)への深い眼差しが息づいているだけでなく、叶わないからこそ祈ったのだ、というところにこそ、反転させられる真理があるのではないか。そしてまた、人々は仏に対し祈るわけであるけれど、仏は「ほとけの祈り」を祈り続けているのであり、その「祈り」のみが滅びずにいまここに残っているというところには仏の姿が改めてここに浮き彫りにされたような感触がある。一首とは思えないほど深い内実が突き詰めた思索によって齎されているのだ。

 

ひとつづつ祈り叶へてそののちに滅ぶ不思議を誰か記さむ 

 

この歌はさらに、先の歌の「叶はざるゆゑに」を反転させたような詠われ方になっている。
ひとつづつ祈り叶へて」には「叶えたとしても」というような歌全体が仮定のなかに置かれているように思われるし、あるいは、古からの一人一人の願いは叶わなかったにしても人間というものは、その歴史のなかでいろいろな不可能を可能にしてきたともいえるわけで、それでも一人一人は必ず最後には死を迎えることになるし、いつかは人類そのものが滅びる。「ひとつづつ」というあり方に対しここでもその視座の大きさが内実をともなって現前の世界を反転させているのだ。

 

米川千嘉子は、東日本大震災に関わる歌も繰り返し読んで来ていて『牡丹の伯母』においても、「奇跡の一本松(二〇一六年)」という連作がある。

 

土の山土の平らとなすことの無限のごとき反復を見る

 

この歌で見つめられている「反復」がこわい。
嵩上げ工事の場面だろう。そこにあった土地の起伏や起伏に沿う道の蛇行の上にどれだけの土を載せたら平らになるのか。そして、今、その土が均されているのである。
これまであった土地の全てを消し去ったその数メートル上で土が今、「無限のごとき反復」によって均されている。それは、どこへも触れ得ない反復である。傷を治療するのでも、あたたかい手でなでるのでもなく、ただ上から閉めた蓋の上を撫でている。

 

この嵩上げ工事にどれだけの労力がかけられているかを思えば「ただ上から閉めた」なんて言い方はよくないんだけれど、そういうものを度外視してこの光景を眺めるとき、その反復のうちにはまったく見出すことのできない風景があったことが思われるのである。「無限のごとき反復」という言い方は、実際にはそれが無限ではないこともまた知らしめられていて、そのような強度のある眼差しによって、ここでも、表面を覆われた世界の裏側が手繰り寄せられていると思うのである。