佐伯裕子/夜ごとに遊園地にわく錆などの分けの分からぬ悲をやり過ごす

佐伯裕子『感傷生活』(砂子屋書房・2019年)


 

疲労が溜まったらしく、ここ数日熱を出して寝込んでいた。近所の医者に診てもらったところ、風邪や早くも流行り始めたインフルエンザではないとわかって安堵したが、身の回りのことをこなすのに手一杯だったので、この連載を2回ほど休んでしまった。伏してお詫び申し上げます。なお休んだ分は近日中にリカバリーするつもりです。

 

今回は佐伯裕子の第8歌集『感傷生活』から。2011(平成23)年から2017(平成29)年までの作品が収められている。掲出歌は標題となっている一連「感傷生活」の一首。一連前半はバイクで郵便配達の仕事をしている息子を詠み、後半は自身の周辺の事物を詠む。

 

 

ふと声に出してしまえば軽きかな子の行く末の末のことさえ
ネット社会に私は棲んでいないから君を凹ます空気を知らず
唐突にドラッグストアで干し草の香りをさがす感傷生活
曇天に色なく戦ぐさくら花ものの腐るが速くなりゆく
圧倒的量感となり花群は大きく動く さよならのよう

 

 

佐伯の特徴は非常に静かでかつ抒情的な作風であり、平易な文体ゆえに作者の心の動きがはっきりと伝わってくる。心の動きが日常に潜在する詩性と感応し、詩に高められている。その手腕と安定感は言うまでもない。だが社会との接点は意識されており、隔絶されてはいない。息子を詠んだ歌も、息子を通して家族を描いているし、家族を描くことが世間を描くことに直結している。その意識が歌の風通しのよさであり、生命線なのである。

 

掲出歌は、実景を描いているようで単純に実景を描いたものでは断じてなく、不思議な味わいを持っている。理由はまず「夜ごとに遊園地にわく錆」で、理屈を言えば錆は長い歳月を経て発生するものであり、夜ごとに湧くものではない。しかも鉄扉や鉄製の遊具に錆が湧くのはわかるが、「遊園地にわく」のは理解できなくはないが、やはり少々省略が過ぎる気もする。しかし「夜ごとに遊園地にわく錆」と書くとき、作品の上では夜ごとに遊園地に錆が湧いている。おそらく一日単位では微量のものだろう。それを感受して「分けの分からぬ悲」を見出すのが詩人の能力に他ならない。一方で、誰もが察知するわけではない「分けの分からぬ悲」をやり過ごさねばならないのは、一種の世知だろう。そのアンビバレンツが一首の隠れたテーマのひとつでもあり、歌の味わいのひとつでもある。

 

 

皮膚に薄く包まれるゆえ出づるときたぶん心は匂うのだろう

 

 

歌集前半にある、別の一連の歌から。一首前に母親が介護で入浴している歌があるので、「皮膚に薄く包まれる」のは母親だろう。同時にもちろん自分自身の状態をも指している。仮に若い作者の歌であったら、観念的な思考を詠んでいると解釈する読者もいると思う。しかし歌集の場合は否応なく作者名が付されることで、私性の強い歌を作る作者の場合は作品の背景と見なされる情報が付帯される場合がある。是非や功罪は一概に言えないが、この歌は佐伯の年齢や前後の歌の情報から、年老いた母親の介護という背景が見えてくる。そしてこの歌も、詩性と世知がせめぎ合っている。佐伯の歌には濃淡の差はあれ、そのせめぎ合いとバランスが内包されている。また、佐伯の歌には常に何か自分の意見を言うことに対しての含羞があるが、その含羞とも結びついていることは押さえておきたい。